若林純夫
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1969年8月、京都で開催された第4回フォークキャンプに参加。ソロで、自らの訳詞によるジェシー・フラーの「サンフランシスコ・ベイ・ブルース」[1]を歌い、高田渡と「この世に住む家とてなく」、「ヘイ・ヘイ・ヘイ」をデュエットする[2]。
1970年代に、村瀬春樹らがオープンした東京・吉祥寺のライブカフェ「BLUES HALL/武蔵野火薬庫 ぐゎらん堂」(1970年10月28日開店)のスタッフとして働く[3]。
1971年、高田渡、シバ、山本コウタロー、友部正人、中川イサト、村瀬雅美ら吉祥寺の音楽仲間と「武蔵野タンポポ団」を結成して、第3回全日本フォークジャンボリー(中津川)に出演する[4]。また、同年5月のソルティー・シュガー解散後に山本コータローが結成した「山本コータローと少年探偵団」(山本、徳武弘文、和田博巳、カシブチ哲郎、岡田徹)にも参加。
1972年、『武蔵野タンポポ団の伝説』『武蔵野タンポポ団もうひとつの伝説』2枚のアルバムをキングベルウッドよりリリース。
1972年5月、大阪の野外コンサート「春一番」に出演。「朝」などを歌う[5]。同年の「春一番」コンサートでは、武蔵野タンポポ団の一員としても活動し、ウディ・ガスリーやジェシー・フラーの楽曲などを訳詞を担当。
1973年5月、「春一番」コンサートで「雪の月光写真師」を歌う。後にレコード化され、深夜放送ではリクエストが寄せられる[6]。
1970年代の半ばに、音楽活動を中止。別の仕事をするようになり、1980年代に山口県内で暮らす[7]。