扶南国は現カンボジア、ベトナム南部に存在した国家で、范尋は扶南王・范旃の大将であった。
范旃が先王の遺児に殺害されると[1]、これを討って范尋が王に立てられた。
范尋は国内をまとめ上げると、諸将と賭け闘鶏などして[2]娯楽を楽しみ、日中は三、四人の客と会った。民はバナナ、芋、亀、鳥などを贈り物とした。国法に牢獄は無く、罪人は三日斎戒して赤熱した斧を持たせて七歩、あるいは金の指輪や鶏の卵を沸騰した湯に入れて、つかみ取らせた。これによって火傷した者は有罪、無傷だったものは無罪とされた。他に、城の堀にワニを、門の外に猛獣を囲い、中に入れた罪人が食べられなければ無罪として釈放された[3]。
244年頃[4]、呉の孫権は中郎・康泰と宣化従事・朱応を扶南国に派遣した[5]。当時の習俗では男子はほとんど裸で、女性は貫頭衣を着ているだけだった。使者たちは「この国は実によいところだが、民がはだけていることだけが奇妙だ」と言い、そこで范尋は触れを出して、男子は「干漫」と呼ばれる腰布を着用するようになった[6]。呉の使者は帰国すると国の習俗をまとめて、康泰は『呉時外国伝』を、朱応は『扶南異物志』をそれぞれ記した。
その後は晋の泰始4年(268年)、使者を送って貢物を贈り、太康6年~8年(285年~287年)も連年派遣した[7]。