庄内藩出身の武士で、鶴岡後田山開墾に従事し、開墾地の50人を1組とする組長を務めていた。1875年(明治8年)に三島通庸が酒田県令として視察に来たとき、ちょうど開墾場に居合わせて場内くまなく案内したことが縁となり登用される。
1882年(明治15年)、三島により村上楯朝、海老名季昌、柴山景綱らとともに福島県庁の一等属に任命される[1]。同年、亀封川尚辰に代わり1883年(明治16年)まで西白河郡長に就任する。
1885年(明治18年)から1886年(明治19年)まで楢葉郡・標葉郡長を務めた[2]。
ワッパ騒動の裁判では三島の代理人となって大審院の法廷にも立った。大審院は鶴岡に臨時法廷を設け、明治9年の4月から6月までこれを審議したというが、荒賀は3ヶ月東京に滞在してこれらの衝にあたっている。