菅健次郎
From Wikipedia, the free encyclopedia
滋賀県甲賀郡水口町(現在の甲賀市)出身[2]。水口小学校卒業、旧制膳所中学校、第五高等学校を経て、1921年(大正10年)に東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業[2]。講道館柔道七段を授けられている。
鉄道省に入省。在外研究員となり、1928年(昭和3年)にアメリカに渡り、自動車運輸の重要性に着眼し、2年半、欧米にて調査研究を行った[4]。省営自動車(旧国鉄バスの前進)の創設に尽力した。当時は外国産のバスに押され、国産バスについても外国製部品の組み立てが多く、完全な国産はできていなかったところ、運輸局長久保田敬一の指示により、国産バスの開発を推進した[4][5]。
1930年(昭和5年)12月20日、嚆矢線として岡多線(岡崎・多治見・高蔵寺間)57.1kmにはじめて省営自動車を開通させた[6][7]。以後、1931年(昭和6年)5月11日の三山線(三田尻・山口間)、1932年(昭和7年)3月25日に亀三線(亀山・三雲間、のち亀草線)をはじめ、全国に多数の路線を建設した[8][7]。なお、最初の3線は菅が試験線として創ったもので、車輛、道路、運転、営業、民間の補填など、様々な研究を行った[7][注 1]。悪路や山道の走行ではガソリン消費量が多く、燃費対策が求められ、バス用ディーゼルエンジンの開発を推進した[4]。
バスの開発とともに、大出力エンジンの応用により、機関車、車、建設機械、船舶機関などにも活用できるとその必要性を説いた[10]。
千葉運輸事務所長、名古屋鉄道局庶務課長、同局教習所長、同局運輸課長、運輸局自動車課長、関東軍交通部次長、鉄道監察官、関東軍司令部附、関東軍参謀部附を歴任し[1][7]、1940年(昭和15年)に退官した[11]。退官後は、華北交通株式会社自動車局長、同参与・済南鉄路局長[11]、帝国薪炭統制会理事、全国自動車燃料会長を歴任した[3]。


