弘化3年(1846年)6月に伊勢国に生まれ、三重県津市東検校町に住む。維新後新政府の軍制に組み込まれ、明治7年(1874年)には陸軍少尉となった。
西南戦争前後の情勢に強い関心を寄せ、明治10年(1877年)3月、鹿児島での動向を耳にして大阪に出向き、情勢を見聞したとされる。菊沢は、西郷隆盛の挙兵は政府が刺客を送ったことに端を発するものと信じ、これに憤激した。さらに同年6月、片岡健吉が政府に提出した立志社建白書の写しを閲覧し、それが事実上却下されたことを知るに及び、政府首脳に対する敵意を決定的なものとした。
このときの供述によれば、菊沢は次のように述べている。
- 「只其責一二ノ大臣ニアリト見究メシヨリ、一身ヲ投シ衆庶ノ塗炭ヲ救ンタメ太政大臣三条公ヲ暗殺シ、若シ之レヲ刺ス事能ハサレハ内務卿大久保公ヲ刺スヘシト存込」
同年7月、心斎橋筋において出刃包丁を購入し、7月25日に汽車で京都へ向かったが、停車場において挙動を疑われ、凶器を発見されて捕縛された。その後、明治11年(1878年)5月30日、京都裁判所において判決が下され、除族のうえ懲役10年という重刑に処された。
京都で勾留された国事犯の中でも、菊沢のみが除族と長期懲役を併科された点は特異であり、明治政府が本件を重大な政治犯罪と位置づけていたことを示している。