華浦医学校
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1874年(明治7年)、「華浦医学舎」の名で、校長の鳥田圭三、副校長の福田正二を中心として開校した[3][注釈 3]。当時の山口県ではトップクラスの設備を有し、フランスから人体紙型模型(クンストレーク[注釈 4])、顕微鏡、外科器械などを購入したり、医科の原書を翻訳したりするなどして最新の西洋医学を教授したことから名声が高まり、県内外から学生が入学した。1877年(明治10年)7月をもって病院と医学校は廃止されたが、福田正二はこれに屈せず、私費で学校教育を継続しようとした。1880年(明治13年)に、山口県は洋医師の不足から医学校を復活させて「山口県医学校」と称して福田を校長に任じ、学生81人が集ったが、1882年(明治15年)に臨床実験が可能な附属病院の併設が義務化されると、当時の県の財政ではそれを備えるだけの財力がなかったことから、1883年(明治16年)末限りで医学校の継続は断念に至った。しかし福田正二は、この再度の廃校の後もなお、三田尻桑山の山麓で晩翠堂病院を経営しながら後進の養成に努めた。
教育の実際
当時は寄宿教育で、入塾には保護者親族からの申請が必要で、春秋の2回帰省が許された。それ以外に親族の不幸があった場合は別途許可された。食費は白米6合と金1銭、授業料は月に50銭だった。休日は、小学校と同様であった。
教育内容は、1874年(明治7年)以降、ドイツ医学を主とし、オランダ語を基礎としてドイツ語を習得させていた。学生は11組のグループに分けられ、一緒に勉強していた。辞書、医学書の原書は、同じものが11組、11冊揃えられていた[6]。また、蔵書の汚れ具合から、洋学の語学力は他藩に比べてかなり高度であったこと、そして山口県におけるオランダ医学からドイツ医学への転換の原動力となったのは福田であったことが確認されている。