落合東堤
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出羽国平鹿郡角間川邑(秋田県大仙市)で郷士の家の三男に生まれ、朱子学者の中山菁莪に師事した[1][注釈 1]。久保田藩の藩校明徳館の教授として招かれたこともあったが、これをことわり、「守拙亭」と称する私塾を故郷角間川にひらいて士族・庶民の別なく儒学を講じた[1][2]。学識・人格ともに優れ、藩内でも有名な学者として知られた東堤であったが、川港として繁栄する角間川地域の風紀粛正につとめ、壮年以降に修得した医術によって、貪富の別なく地域医療にあたったため「角間川聖人」とよばれ、士民から慕われた[1][2]。また、稲の耐冷品種の普及にも功があった[2]。93歳で死去するまで253冊もの著作をおこなっている[2]。主著に『東堤随筆』『四書講義』がある[1]。天明の大飢饉の際には久保田藩により飢饉対策を求められ、天明6年(1786年)『落合東堤上書』を具申した[3][注釈 2]。墓所は、角間川町東中上町の喜福院(真言宗)に所在する[3]。
生家のある大仙市角間川下中町には、生地であることを案内する標柱が立っている[2]。