蒼隼丸
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いわゆる鎖国体制をとっていた江戸時代の日本であったが、後期になると、1846年(弘化3年)のジェームズ・ビドル艦隊の来航など、外国船の出現が相次ぐようになった。当時の日本の沿岸警備体制は不十分で、例えば、東京湾の海上警備を担当する浦賀奉行所の保有船艇は、老朽化して廃船同様の「下田丸」(32丁艪)を最大とする小早4隻と押送船7隻しかなかった[2]。そこで、海防体制の強化が課題となった。
ビドル艦隊来航後、浦賀奉行の大久保忠豊らは、大型軍船の建造を軸とする海防方針(大船策)を提案した。他方、幕府中央の海防掛らは陸上砲台と小型船による小船策を適当とし、しかも1847年10月(弘化4年9月)に浦賀奉行所が小船策に沿って提案したスループ建造案すらも却下した。却下理由は、西洋式で2本マストのスループは外国船に紛らわしく、天保13年に出された国籍識別目的の3本マスト船禁止令に抵触する虞があること、大型の外国船には性能的に対抗できないので不必要な変革であることなどであった[3]。
不採用となりかけたスループ案であったが、1849年(嘉永2年)、大船策を推す老中の阿部正弘の裁定により、一転して建造が決まった[4]。浦賀奉行所に1隻の試作が命じられ、運用結果が良好であれば量産も行うものとされた。海防掛の反対をふまえ、マストの数は1本だけとし、和船と同じく起倒式とするよう指示された。1849年4月22日(嘉永2年3月30日)に浦賀で起工され、同年8月9日(嘉永2年6月21日)に竣工した[5]。
構造
本船の構造は、西洋式のスループを基本とし、和船の設計を加えた和洋折衷のものである。船体は西洋式で、竜骨に肋材(まつら)を組み合わせた上から外板と内板を張っている。舵も洋式の構造であった。船体の大きさは、彦根藩で作成された図面によると、全長55尺(16.7m)、最大幅13尺(3.9m)、喫水4.2尺(1.3m)であった[6]。洋式船としては小型であるが、既存の警備船では最大級の30丁艪相当の規模であった。設計の参考資料とされたのは、佐賀藩から入手したバッテラ(pt:Bateira)と呼ばれる小型洋式船の模型などであった[7]。竣工時には赤と黒の塗装が施されていたが、試乗した大目付・小目付らからの苦情で除去された[8]。
帆装は、和船のような起倒式のマストに、洋式に下端が長い台形の横帆を張っている。帆の上下に帆桁が入っているのも、当時の和船では珍しい。本来のスループでは縦帆が一般的であるが、横帆になったのは和船で一般的であったためと推測される。マストは、前述のように1本だけとするよう指示されていたにもかかわらず、実際には38.5尺(11.7m)の主帆柱の前方に、25.5尺(7.7m)の弥帆柱を持つ二檣帆船として完成した。これは、当時の和船でも2本マストのものは珍しくなかったため、浦賀奉行の判断で決められたものと思われる[9]。弥帆柱を横に傾け、急旋回などの操船に使うことも可能だった。
帆以外の推進設備としては、洋式の櫂が22丁備えられ、無風時の航行などに使用された[6]。武装は、3貫目ハンドモルチール2門と、150目ダライハス6門が備えられた[10]。