蓋寓
From Wikipedia, the free encyclopedia
祖父の蓋祚と父の蓋慶はいずれも蔚州の牙将をつとめた。乾符3年(876年)、蓋寓は康君立らとともに李克用を雲州に迎え、その腹心となった。中和元年(881年)、李克用が雁門節度使に任じられると、蓋寓はその下で都押牙をつとめ、嵐州刺史を領知した。中和4年(884年)、李克用が太原府に移鎮すると、蓋寓はその下で左都押牙・検校尚書左僕射に転じた。李克用の征戦にはいずれも従った[1]。
光啓2年(886年)、僖宗が興元府に避難すると、蓋寓は朱玫の乱を討つよう李克用に勧めて、聞き入れられた。乾寧2年(895年)、李克用に従って関中に入り、王行瑜を討った。検校太保となり、開国侯の爵位を受け、容管観察経略使を領知した。光化元年(898年)、昭宗が長安に帰ると、蓋寓は検校太傅となり、成陽郡公に封じられた。天祐2年(905年)3月、病没した。後唐の荘宗が即位すると、蓋寓は太師の位を追贈された[2]。