蔦屋重三郎 (2代目)
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二代目蔦屋重三郎は、初代蔦屋重三郎の番頭を務めていた勇助が、蔦屋家に婿養子として入り名跡を継いだものである。曲亭馬琴の日記によると、勇助は版元伊賀屋勘右衛門の妻の従弟であったとされ[1]、これが蔦屋家への奉公の縁となったとされる。初代の没後、寛政9年(1797年)頃までに二代目を襲名し、書肆「耕書堂」を継承した。
耕書堂は当初、日本橋通油町に構えていたが、二代目の代には業績悪化が重なり、横山町を経て小伝馬町三丁目へ移転したことが記録から推測される。二代目は狂歌本・名所記・教養書などを中心に出版し、初代が写楽・歌麿のプロデュースで名声を得たのに比べると、安定した版元としての活動が主であったと位置付けられる[2]。
出版史料のうち特に明確なのが、葛飾北斎との共同作である。享和2年(1802年)刊行の『潮来絶句集』は北斎が挿絵を担当し、「耕書堂 蔦屋重三郎板」の表記がみえるが、装丁が華美であったため、幕府より番頭忠兵衛が処罰を受けたと伝わる。また、寛政11年(1799年)刊の『絵本東都遊』は狂歌絵本『東遊』から北斎の絵のみを再編集し、二代目蔦屋が発行したものであり、北斎の名所絵初期作として知られる[3]。
出版活動の背景として、二代目は初代から受け継いだ大量の版木を保持していたが、版木は枯れたものほど彫りやすいとされたため、蔦屋家の板倉から不要になった版木を掘り出し彫師に使用させたと推測される[4]。こうした再利用によって耕書堂の出版が継続された側面も指摘されている。
勇助はおよそ36年間にわたって耕書堂を主宰し、天保4年(1833年)5月14日に没した。菩提寺は山谷正法寺で、戒名は「勇山松樹日行信士」と記される[5]。死後は養子が三代目を継いだが、わずか4年で没したと伝わる。二代目の事績からは、初代に比べて商売の規模が縮小しながらも、北斎を中心とした出版を支えた版元としての役割が評価される。