開泰年間、祗候郎君となった。聖宗の娘の晋国公主耶律搠古を妻に迎え、駙馬都尉の位を受けた。殿前都点検に累進した。太平年間、北府宰相に抜擢された。
重熙7年(1038年)、東京留守となった。当時、渤海人が蹴鞠をすることが禁止されていたため、孝忠はその禁を弛めるよう上奏して、受け入れられた。
重熙12年(1043年)1月、楚王に封じられ、北院枢密使に任じられた。北院・南院の枢密を統合することを提案して上奏したが、実施されないまま、7月に死去した。11月、楚国王に追封された。
子の蕭阿速は、南院枢密使に上った。