蕭定

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蕭 定(しょう てい、708年 - 784年)は、唐代官僚は梅臣[1][2]本貫常州武進県

虢州刺史の蕭恕(蕭釴の子)の子として生まれた。宋国公蕭瑀の曾孫にあたる。蔭官により陝州参軍金城県丞に任じられ、事務の清廉有能であることで知られた。給事中裴遵慶に推薦されて、黜陟使判官に任じられた。万年県主簿に転じ、侍御史・考功員外郎・右司郎中・左司郎中を歴任した。元載に排斥されて、袁州刺史として出され、信州湖州宋州睦州潤州の刺史を歴任した[1][2]

大暦年間、天下の刺史の成績が評定されると、蕭定は常州刺史の蕭復濠州刺史の張鎰とともに理行第一とされた。農業や養蚕を勧奨し、賦税を公平にし、亡命者を帰還させて、域内の人口の増加は蕭定がトップであった。ほどなく戸部侍郎・太常寺卿に転じた。建中4年(783年)、朱泚の乱が起こると、蕭定は姓名を変えて村落に隠れた。興元元年(784年)、長安が奪回されると、太子少師に任じられた。この年のうちに死去した。享年は77。太子太師の位を追贈された[1][2]

脚注

伝記資料

参考文献

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