蕭定
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虢州刺史の蕭恕(蕭釴の子)の子として生まれた。宋国公蕭瑀の曾孫にあたる。蔭官により陝州参軍・金城県丞に任じられ、事務の清廉有能であることで知られた。給事中の裴遵慶に推薦されて、黜陟使判官に任じられた。万年県主簿に転じ、侍御史・考功員外郎・右司郎中・左司郎中を歴任した。元載に排斥されて、袁州刺史として出され、信州・湖州・宋州・睦州・潤州の刺史を歴任した[1][2]。
大暦年間、天下の刺史の成績が評定されると、蕭定は常州刺史の蕭復や濠州刺史の張鎰とともに理行第一とされた。農業や養蚕を勧奨し、賦税を公平にし、亡命者を帰還させて、域内の人口の増加は蕭定がトップであった。ほどなく戸部侍郎・太常寺卿に転じた。建中4年(783年)、朱泚の乱が起こると、蕭定は姓名を変えて村落に隠れた。興元元年(784年)、長安が奪回されると、太子少師に任じられた。この年のうちに死去した。享年は77。太子太師の位を追贈された[1][2]。