薛挙

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薛 挙(せつきょ、生年不詳 - 618年)は、本貫を河東郡汾陰県(現在の山西省万栄県)とし、後に父の薛汪が金城(現在の蘭州)に移り住んだ[1]隋末唐初に割拠した群雄の一人。[2]

薛挙は容貌が魁偉で、武勇に優れ、弓術を得意とした。巨万の富を築き、辺境の豪傑と交際するのを好み、その地で雄と呼ばれた。隋の大業末年、金城府の校尉に任じられた。時に凶作に見舞われ、隴西で盗賊が続発し、金城県令の郝瑗が賊を討とうとして、数千人の兵を募り、薛挙を指揮官に任命した。武器を支給する日、薛举は盛大な宴を開き、子の薛仁杲やその党与と共に席上で郝瑗を捕らえ、反逆者を捕えると偽って、すぐに兵を挙げた。郡県の役人を拘束し、食糧を放って貧民を救い、自ら西秦霸王と号し、元号を秦興と定めた。薛仁杲を斉公、末子の薛仁越を晋公とした。賊帥の宗羅睺が軍を率いて帰順すると、義興公に任じた。さらに他の盗賊を招き寄せ、牧場を掠奪した。その兵鋒は極めて鋭く、攻めるところはことごとく陥ちた。

隋の将皇甫綰が兵1万人で枹罕に駐屯すると、薛挙は精兵2000でこれを奇襲し、赤岸で遭遇した。大風が吹き雨が降りしきる中、風は薛挙の陣に向かっており、皇甫綰は攻撃しなかった。まもなく風向きが逆転して皇甫綰の陣営に吹きつけ、天色は暗く、隊伍は乱れた。薛挙は甲冑を着けた騎兵を率いて真っ先に突撃し、皇甫綰の陣営は大敗し、薛挙は勢いに乗って枹罕を陥れた。岷山の羌族の首領鍾利俗が2万の兵で降ると、薛挙の勢いは大いに振るった。薛仁杲を進めて斉王・東道行軍元帥とし、宗羅睺を義興王としてその副とした。薛仁越を晋王・河州刺史とした。こうして鄯州・廓州の2州を攻め落とした。10日と経たずに隴西の地をことごとく占拠し、兵は13万に及んだ。

大業13年、薛挙は蘭州で皇帝の位を僭称し、妻の鞠氏を皇后、薛仁杲を太子とした。先祖の墓のあるところに陵邑を置き、城南に廟を建て、数万の兵を列して墓参りを終えると、盛大に酒宴を開いた。薛仁杲に秦州を包囲させ、薛仁越には剣口に向かわせて河池を掠めさせたが、太守の蕭瑀に防がれて退けられた。部将の常仲興を派遣して黄河を渡り李軌を攻撃させたが、李軌の部将の李赟と昌松で戦い、仲興は敗れ、軍は李軌に没収された。薛仁杲が秦州を陥れると、薛挙はそこに都を移した。

薛仁杲が扶風を侵すと、汧源の賊帥唐弼が防いで進むことができなかった。初め、唐弼は李弘芝を天子に立てており、兵10万を擁していた。薛举は使者を遣わして唐弼を招き、唐弼は李弘芝を殺して薛举に従った。薛仁杲は唐弼の無備に乗じて襲撃し、その兵をことごとく奪い、唐弼は数百騎で逃走した。薛挙の軍はますます張り、20万と号し、京师を窺おうとした。たまたま唐の高祖李淵が関中に入ったので、扶風に留まって攻めたが、秦王(李世民)に撃破され、数千の首級を斬られ、隴まで追撃されて帰った。薛挙は秦王を恐れ、隴山を越えて逃走し、その部下に問うた、「古えに降る天子ありしや」。偽黄門侍郎の褚亮が言う、「昔、趙佗は南越をもって漢に帰し、蜀の劉禅も亦た晋に仕え、近世の蕭琮は、其の家今尚存し、禍を転じて福と為すは、嘗て之れ有り」。衛尉卿の郝瑗が言う、「亮の言は非なり。昔、漢祖は兵に屢々敗れ、蜀の先主は嘗て其の妻子を亡せり。夫れ戦には固より勝負あり、豈に一たび勝たざるを以て便ち亡国の計と為すべけんや」。薛挙もその言を悔い、すなわち言う、「聊か公等を試みたるのみ」。すなわち厚く瑗に賜い、以て謀主と為した。瑗は梁師都と連合し、突厥に厚く賂して、合従して東に向かうことを請うた。薛举はこれに従い、突厥の莫賀咄設と約して京师を犯した。たまたま都水監の宇文歆が突厥に使いし、歆は其の兵を止むることを説き、故に薛挙の謀は塞がれた。

武徳元年、豊州総管の張長愻が宗羅睺を攻めると、薛挙は全軍を挙げて援け、析墌に駐屯し、遊軍をもって岐州・豳州を掠めた。秦王はこれを禦ぎ、高墌に駐屯し、薛举の糧食が少なく速戦を利とすることは、塹壕を堅くして其の兵を疲労させるに如かずと判断した。たまたま秦王が病にかかり、臥したまま出撃しなかったが、薛挙は数度にわたって挑戦した。行軍長史の劉文静・殷開山が高墌に兵を観し、衆に恃んで設備せざるに、薛举の兵が其の後を掩い、遂に大敗し、死ぬる者十の五六、大将の慕容羅睺・李安遠・劉弘基も皆な没落した。王は京师に還り、薛挙は高墌を抜き、薛仁杲は進んで寧州に逼った。郝瑗が謀って言う、「今、唐は新たに破れ、将卒は禽俘せられ、人心は揺るぎたり、勝に乗じて直ちに長安に趨る可し」。薛挙は之を然りとす。方に行かんとして病み、巫を召して占い視しむるに、唐兵の為に祟ると言い、薛举は之を悪み、未だ幾くならずして死す。薛仁杲は代わり立ち、偽諡して薛举を武皇帝と為すも、未だ葬らざるに仁杲は滅びたり。

人物・逸話

薛挙は戦いに勝つたびに、捕虜にした兵士を皆殺しにした。人を殺す際には多く舌を切り、鼻をそぎ、あるいは臼で搗き殺した。その妻の性格もまた残酷で、部下を鞭打つのを好んだ。人が苦痛に耐えかねて地面でのたうち回るのを見ると、その足を埋め、腹と背だけを露出させて叩いた。このため、人々の心は離れた。[3]

評価

『旧唐書』:薛挙父子は並ぶ者がないほどの勇敢さを持ち、性質は皆殺しを好み、中でも仁杲は特に酷かった。人望がなく、民衆や家臣は離反した。たとえ猛々しくても、何になろうか。[4]

後世の創作

伝記資料

脚注

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