薛珏
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若くして蔭官により懿徳太子廟令に任じられ、乾陵台令に転じた。ほどなく太子中允として試用され、渭南県尉を兼ねた。清廉なことで知られ、昭応県令に転じた。県の人が紀政碑を立てたいと請願したが、薛珏は固辞して受けなかった。楚州刺史・楚州営田使となった。観察使に誣告され、硤州刺史に左遷され、陳州刺史に転じた[1][3]。
建中元年(780年)、中散大夫を加えられた。宣武軍節度使の劉玄佐の推薦により御史大夫・汴宋都統行軍司馬を兼ねた。ほどなく李希烈が汴州から敗走すると、薛珏は汴州刺史に任じられた[4][5]。貞元元年(785年)、河南尹にとなり、河南水陸運使をつとめた[6]。入朝して司農寺卿となった[7][5]。
貞元5年(789年)、薛珏は京兆尹に任じられた。貞元8年(792年)、竇参の罪に連座して太子賓客に転じた。ほどなく嶺南節度使に任じられた[7][5]。貞元11年(795年)1月6日[8]、病のため死去した。享年は74。工部尚書の位を追贈された[7][5]。