薬彦稠

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薬 彦稠(やく げんちゅう、生年不詳 - 934年)は、五代十国時代軍人沙陀三部落の出身[1][2]

幼くして騎射により李嗣源に仕え、列校に累進した。天成元年(926年)、後唐の明宗(李嗣源)が即位すると、彦稠は汝州刺史・河陽馬歩軍都将となった。天成3年(928年)、王晏球に従って王都定州に討った。天成4年(929年)、王都の乱を平定すると、彦稠は寿州節度使・侍衛親軍歩軍都虞候となった。長興元年(930年)、河中指揮使の楊彦温が反乱を起こすと、彦稠は侍衛親軍歩軍都指揮使に転じ、河中招討副使をつとめ、兵を率いてこの反乱を鎮圧した[1][3]

長興2年(931年)、静難軍節度使に任じられた。党項の阿埋・屈悉保らが回鶻の使者を殺害すると、彦稠は明宗の命を受けて兵を発し、牛児族から白魚谷に入り、阿埋らを殺害した。回鶻の貢献しようとしていたラクダや宝玉を奪回し、党項の首領の連香を捕らえて凱旋した。塩州の諸族を駆逐し、男女1000人あまりを捕らえた。夏州に進攻したが、攻略できず、撤退して邠州に帰った[1][4]

応順元年(934年)、閔帝が即位すると、彦稠は王思同とともに鳳翔府を攻め、招討副使をつとめた。禁軍が潰滅すると、彦稠は逃走しようとしたが、軍士に捕らえられて潞王李従珂に献上された。李従珂が華州にいたると、彦稠は殺害された。天福12年(947年)、後漢高祖が即位すると、彦稠は侍中の位を追贈された[1][4]

脚注

伝記資料

参考文献

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