薬縦之
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若くして儒者となった。李嗣源が代州刺史となると、縦之は軍事牙推に任じられた。李嗣源に従って邢州に駐屯し、掌書記となった。天平軍節度副使・宣武軍節度副使を歴任した。李嗣源が鎮州に駐屯すると、縦之は病のため従うことができなかった。天成元年(926年)、明宗(李嗣源)が即位すると、縦之は洛陽を見物したが、安重誨がかれの浮かれぶりに怒り、長らく官任を受けられなかった。明宗はかつて徳勝口の戦いの飢寒のときにも縦之が随従した功労を思い、磁州刺史に任じた[2]。長興2年(931年)、宣武軍節度副使から戸部侍郎となった[3]。長興3年(932年)10月、兵部侍郎に転じた[4]。12月、吏部侍郎に転じた[5]。縦之は官吏選考の方法には詳しくなかった[2]。長興4年(933年)、曹州刺史となった[6]。清泰元年(934年)9月、病のため代任を受け入れ、死去した[2]。