藤井政美
From Wikipedia, the free encyclopedia
石川県金沢市出身。金沢第一中学校(46期[2])より東京陸軍幼年学校を経て予科士官学校を卒業(3期)し、近衛歩兵第1連隊隊附勤務。1940年(昭和15年)、陸士本科卒業と同時に南支に小隊長として派遣され、南寧にて右膊部貫通の銃創を負う。1941年(昭和16年)6月、内地に凱旋。以降初年兵教官、連隊旗手、大隊副官、中隊長を歴任[1]。
1943年(昭和18年)12月に陸軍士官学校区隊長となり、58期生の教育を担当。終戦直前、学校本部附として座間に残っており、様子を見に近衛師団本部に赴いた際に宮城事件に参加した。上原重太郎大尉、窪田兼三少佐らと参謀部事務室で森師団長の帰還を待っていた最中に佐藤好弘大尉に下村宏らの監禁を手伝うよう電話で呼び出されたため、森師団長暗殺には立ち会っていない。
上記の動向は小説、映画「日本のいちばん長い日」でも描かれた。また、飯尾憲士のインタビューに応じ、畑中、上原ら反乱参加者それぞれの印象について証言しているほか、佐藤大尉からの電話を受け取らなければそのまま参加していただろうと回想した[3]。
復員後は金沢に帰郷していたが、再び上京し、本郷で袋物裏生地卸「丸美商店」を営んだ[1]。1986年に横浜市に移住。
晩年は歩行障害を患い、薬の副作用等で容態が悪化し肺炎で死去[1]。
年譜
- 1935年(昭和10年)4月:東京幼年学校に転学(39期、第3訓育班第6学班[4])
- 1937年(昭和12年)11月:予科士官学校入学(3期、第7中隊第4区隊、長:井貫浩中尉[5])
- 1938年(昭和13年)11月20日:予科士官学校卒業(優等、3位)[6]、近衛歩兵第1連隊第2中隊(長:中村亮大尉)に配属[7]
- 1940年(昭和15年)
- 9月:陸軍士官学校卒業(54期、第27中隊)
- 10月24日:近衛歩兵第1連隊第6中隊に配属[8]、のち少尉
- 1941年(昭和16年)
- 1943年(昭和18年)5月10日:一等級下賜[11]
- 1944年(昭和19年)
- 1945年(昭和20年)8月15日:近衛歩兵第1連隊本部附[14]
著書
- 「昭和の戦争責任論」1991年1月発行