藤井政美

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藤井 政美
ふじい まさみ
生誕 日本の旗 日本 石川県金沢市
死没 2008年7月7日
日本の旗 日本 神奈川県横浜市
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1938-1945
最終階級 大尉
除隊後 自営業
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藤井 政美(ふじい まさみ、1921年ごろ - 2008年(平成20年)7月7日[1])は日本の軍人。陸軍士官学校第54期卒業。最終階級は大尉。終戦直前、玉音放送を阻止するために陸軍将校たちが起こした「宮城事件」に参加した。

石川県金沢市出身。金沢第一中学校(46期[2])より東京陸軍幼年学校を経て予科士官学校を卒業(3期)し、近衛歩兵第1連隊隊附勤務。1940年(昭和15年)、陸士本科卒業と同時に南支に小隊長として派遣され、南寧にて右膊部貫通の銃創を負う。1941年(昭和16年)6月、内地に凱旋。以降初年兵教官、連隊旗手、大隊副官、中隊長を歴任[1]

1943年(昭和18年)12月に陸軍士官学校区隊長となり、58期生の教育を担当。終戦直前、学校本部附として座間に残っており、様子を見に近衛師団本部に赴いた際に宮城事件に参加した。上原重太郎大尉、窪田兼三少佐らと参謀部事務室で森師団長の帰還を待っていた最中に佐藤好弘大尉に下村宏らの監禁を手伝うよう電話で呼び出されたため、森師団長暗殺には立ち会っていない。

上記の動向は小説、映画「日本のいちばん長い日」でも描かれた。また、飯尾憲士のインタビューに応じ、畑中、上原ら反乱参加者それぞれの印象について証言しているほか、佐藤大尉からの電話を受け取らなければそのまま参加していただろうと回想した[3]

復員後は金沢に帰郷していたが、再び上京し、本郷で袋物裏生地卸「丸美商店」を営んだ[1]1986年に横浜市に移住。

晩年は歩行障害を患い、薬の副作用等で容態が悪化し肺炎で死去[1]

年譜

  • 1935年(昭和10年)4月:東京幼年学校に転学(39期、第3訓育班第6学班[4]
  • 1937年(昭和12年)11月:予科士官学校入学(3期、第7中隊第4区隊、長:井貫浩中尉[5]
  • 1938年(昭和13年)11月20日:予科士官学校卒業(優等、3位)[6]、近衛歩兵第1連隊第2中隊(長:中村亮大尉)に配属[7]
  • 1940年(昭和15年)
    • 9月:陸軍士官学校卒業(54期、第27中隊)
    • 10月24日:近衛歩兵第1連隊第6中隊に配属[8]、のち少尉
  • 1941年(昭和16年)
  • 1943年(昭和18年)5月10日:一等級下賜[11]
  • 1944年(昭和19年)
    • 5月:陸軍士官学校第8中隊第4区隊長(58期担当)[12]
    • 9月15日:陸軍士官学校第3中隊第2区隊長(同)[13]
  • 1945年(昭和20年)8月15日:近衛歩兵第1連隊本部附[14]

著書

  • 「昭和の戦争責任論」1991年1月発行

登場作品

出典

参考文献

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