藤原伊成
From Wikipedia, the free encyclopedia
『権記』によると、長保2年(1000年)兄・成房の舎弟であった薬壽が加冠し、内蔵頭・藤原陳政が理髪を行ったとの記事があり[1]、これが伊成を指す可能性がある。
長保4年(1002年)の成房の出家を経て、長保5年(1003年)までに左兵衛権佐に任ぜられ、同年3月には従兄弟にあたる藤原行成の許を訪れた人物として『権記』に登場する[2]。寛弘4年(1007年)右中弁・藤原経通、侍従・藤原能信らと共に昇殿を許される[3]。のち、寛弘5年(1008年)右近衛少将、寛弘6年(1009年)左近衛少将と引き続き武官を歴任する。
同年11月末に中宮(土御門邸)で行われた敦良親王(のち後朱雀天皇)の誕生五夜の産養に際して、伊成は右兵衛佐・藤原能信から罵倒される内にその責めに耐えられず、笏で能信の肩を殴りつけた。これによって蔵人・藤原定輔は伊成を縁側から突き落とし、能信の家人を召し集め、髪を捕らえて俯せに踏みつけ、松明をもって殴り押さえつけたとされる[4]。この凌辱事件が原因で伊成は12月1日に出家した[5]。