藤原公重 (藤原通季の子)
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大治3年(1128年)父の通季が没したため、叔父の藤原実能の養子となる。
鳥羽院政期初頭の大治5年(1130年)紀伊守に任ぜられると、最勝寺五大堂造進の功により重任宣旨を受け、保延3年(1137年)まで8年に亘ってこれを務めた。侍従・右兵衛佐を経て、康治3年(1144年)左近衛少将に任ぜられるが、翌天養2年(1145年)正月に少将を止められてしまう。この頃、女性問題により正月の叙位に漏れたとの噂があり[1]、少将辞任もこの問題に関係したものか。その後、仁平元年(1151年)頃に従四位下、保元元年(1156年)従四位上、永万元年(1165年)正四位下と昇進するが、官職に就いた形跡はなく、長く散位であったと見られる。
人物
官歴
- 時期不詳:従五位下
- 大治5年(1130年) 正月28日:紀伊守[6]。12月26日:紀伊守重任宣旨(最勝寺五大堂造進功)[6]
- 保延2年(1136年) 12月13日:見鳥羽院殿上人[7]
- 保延3年(1137年) 正月20日:見侍従[6]。正月30日:兼右兵衛佐[6]。日付不詳:見紀伊守[8]
- 康治元年(1142年) 正月5日:正五位下[9]。7月12日:恐懼(土御門殿方違御幸不供奉)[9]
- 康治3年(1144年) 正月24日?:左近衛少将、元右兵衛佐[10]
- 天養2年(1145年) 正月26日?:止少将[10]
- 仁平元年(1151年)頃:従四位下[11]
- 保元元年(1156年) 正月6日:従四位上[12]
- 永万元年(1165年) 7月26日:正四位下[13]
- 治承元年(1177年) 10月28日:見前少将[14]
- 治承2年(1178年) 9月:卒去[15]