藤原師基 (中関白家)
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後冷泉朝にて右馬頭や皇后宮権亮(皇后は藤原寛子)を経て、康平6年(1063年)右中弁に直任される。治暦元年(1065年)左中弁に昇任され、治暦3年(1067年)2月には蔵人頭(頭弁)に補せられる。しかし、同年より病気のために出仕できなくなり、治暦4年(1068年)3月に蔵人頭を辞し、治暦5年(1069年)には左中弁も解かれて若狭守として地方官に転じた。
承保4年(1077年) 2月10日卒去。享年47。最終官位は前若狭守正四位下。
妻(源定良の娘)は白河天皇の乳母を務めているが、彼女が後冷泉朝の頃に早世した影響もあるのか、乳父として目立った恩恵を受けることはなかった。代わりに息子の国明や娘婿の源俊明が院近臣として登用されることになる[1]。