藤原広嗣

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生誕 和銅7年(714年)ごろ
 
藤原 広嗣
藤原広嗣『前賢故実』より
時代 奈良時代
生誕 和銅7年(714年)ごろ
死没 天平12年11月1日740年11月24日
官位 従五位下大宰少弐
主君 聖武天皇
氏族 藤原式家
父母 父:藤原宇合
母:石上国盛(石上麻呂の娘)
兄弟 広嗣良継清成綱手田麻呂百川蔵下麻呂藤原魚名室、藤原巨勢麻呂室、掃子
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藤原 広嗣(ふじわら の ひろつぐ)は、奈良時代貴族藤原式家の祖である参議藤原宇合の長男。官位従五位下大宰少弐。大宰少弐の時に玄昉吉備真備の排除を訴えて藤原広嗣の乱を起こしたが、敗れて刑死した。

生い立ち

参議藤原宇合の長男として生まれる[1]。生年を特定する資料に欠くが、同母弟・良継霊亀2年(716年)の生まれなのでそれ以前の生まれであり、従六位上から従五位下に同日昇叙した従兄弟の永手和銅7年(714年)生まれであることから、和銅7年前後の生まれと推測できる[1]

天平9年(737年)4月以降、聖武朝前半の朝廷にて圧倒的権力を誇っていた藤原四兄弟が疫病により相次いで亡くなっていき、最後に残った宇合も8月5日に死去する[2]。広嗣の史料上の初見は『続日本紀』同年9月28日条で、従六位上から三階昇進し、従五位下叙爵したというものである[3]式部少輔を経て、天平10年(738年)4月からは大養徳守も兼任する[3]

大宰少弐への左遷

同年12月4日に大宰少弐に任じられるが、これは左遷人事であると考えられている[4]。広嗣蜂起後に朝廷が流布した広嗣の凶悪さを述べる文書においては、左遷の理由として親族への誹謗により一族の和を乱したことが理由に挙げられている[5][4]。広嗣が謗った親族とは伯母皇太夫人藤原宮子で、宮子と玄昉の関係の謗議を通じて、玄昉を除くことを進言したものと想定される[6]。これに対して、広嗣の挙兵が聖武天皇の東国行幸の原因と考えられていた従来の通説が否定され、東国行幸がそれ以前から計画されていたことが有力視されるようになったことを受けて、玄昉や吉備真備から唐の玄宗の新都構想を聞いた聖武天皇が遷都を前提とした行幸計画を行おうとしたのを諫めようとして、この計画を提案した玄昉らを除くことを進言したとする説も出されている[7]

広嗣が大宰府に赴いた当時、長官の大宰帥は空席で、次官・大宰大弐には広嗣と同日に高橋安麻呂が任命され、少弐としてもう1人多治比伯(おおじ)という人物が既にいた[8]。ただし、大宰府における乱以前の広嗣の動静は記録に見えない[8]。天平11年(739年)3月、母方のおじ・石上乙麻呂久米若売(もとは宇合の妻の一人であった)を姧したとの理由で乙麻呂が土佐国に、若売が常陸国配流となった[9]では1年または2年(夫がある場合)の徒罪とされるに対して遠流に相当する刑罰は重すぎることから、木本好信はこの事件の背景に乙麻呂と広嗣の結びつきを問題視する政治的事情があったと推測している[8]

蜂起

『松浦廟宮先祖次第并本縁起』(上表文冒頭部)

天平12年(740年)8月に広嗣は「天地による災厄は(反藤原勢力の要である[要出典]右衛士督吉備真備と僧正・玄昉に起因するもので、2人を追放すべき」との上表文を朝廷に送る[10][11]。この上表文の本文は『松浦廟宮先祖次第并本縁起』に載せられているが、この史料は広嗣を祀る鏡宮・神宮知識無怨寺の縁起を述べるもので脚色や誤りが多い[12]。ただし、引用された上表文については斎藤国治が『続日本紀』にない太白(金星)の位置の記述が正確であると指摘し、細井浩志も偽作説を否定した[12]。上表文中では、天変地異の発生や玄昉の数多くの悪行を挙げ、対外軍備増強を唱えるとともに、玄昉・吉備真備の重用を批判し彼らを討伐することを申し出ている[13]

『続日本紀』9月3日条に広嗣が挙兵したことと、朝廷が大野東人を大将軍、紀飯麻呂を副将軍として1万7千人の軍を動員させて討伐を決定したことが記述される[11]。ただし、上表文の到達後ただちに朝廷が討伐を決定したのか、あるいはそれとは別の広嗣挙兵の報を受けて討伐決定に至ったのかなど、経緯には解釈の余地がある[11]

大野東人は早くも9月21日には長門国から関門海峡の渡海を開始させ、豊前国の広嗣軍を攻撃して24日までに大宰史生・小長谷常人らを殺すなどの戦果を挙げた[14]。東人の報告によれば広嗣は1万余の軍勢を率いて板櫃川で官軍と対峙したようだが、板櫃川の戦いで広嗣軍は瓦解し、それ以降戦闘の記録は見られない[14]

広嗣は逃亡をはかるものの、10月23日に肥前国松浦郡値嘉島長野村で捕らえられ[15][16]、11月1日に弟・綱手と共に肥前松浦郡にて斬刑に処された[17][16]

翌天平13年(741年)正月22日に関係者の処罰が決定し、死罪26人、没官5人、流罪47人、徒罪32人、杖罪177人が刑に服したと記録され、広嗣の弟の良継は伊豆国へ、田麻呂隠岐国へ流された[18]

死後

藤原広嗣を祀る鏡神社唐津市)二宮。

玄昉は天平17年(745年)に筑紫観世音寺に左遷され、翌天平18年(746年)に死去。『続日本紀』には広嗣の霊に害されたという風聞が世間にあったと記録されている[19]。吉備真備は天平勝宝2年(750年)に筑前守、さらに肥前守に左遷され、やはり広嗣の怨念との関わりが噂されたようだが長命を保ち最終的に正二位右大臣にまで昇る[19]

広嗣の鎮魂に関する動きは天平17年(745年)に肥前国松浦郡の弥勒知識寺に僧20人を置き、水田20町が国から施入されたというのが早いものとみられ、同寺は承和2年(835年)の再興の際「国家を鎮め、逝霊を救わん」という慰霊の意義が述べられている(『類従三代格』)[20]。また弘仁3年(812年)の年紀をもつ最澄の「長講法華経後分略願文」には「崇道天王」らとともに「松浦小(少)弐霊」、すなわち広嗣が挙げられていることから御霊信仰の対象となっていったことがうかがえる[21]

広嗣を御霊信仰の対象とする神社には京都市下御霊神社奈良市御霊神社があり、広嗣を祀る神社は九州においては鏡神社佐賀県唐津市)や大村神社(同市)、鏡神社(同県小城市)、鏡神社(福岡県福岡市)が存在する[22]。また新薬師寺の西隣に鎮座する南都鏡神社も広嗣を祀る[20]

官歴

続日本紀』による。

系譜

  • 父:藤原宇合
  • 母:石上国盛(石上麻呂の娘)[23]
  • 妻:輪立氏?(鎌倉時代の『諸寺建立次第』『諸寺縁起集』に興福院の創建を「弘嗣大臣御妻」の輪立氏とする記述があるが、弟の「弘福院大臣」良継の誤りとも考えられ、輪立氏という氏族も奈良時代には確認できない[24]。)
  • 子は不詳。『尊卑分脈』は行雄・長常という男子2人を挙げるが、実際には2人は藤原山人の子で、記事が混入したものとみられる[24]

万葉集』巻8に以下の歌が採録されている[25]

  • 藤原朝臣広嗣の桜の花を娘子に贈る歌一首
    • この花の一枝(ひとよ)のうちに百種(ももくさ)の 言(こと)そ隠(こも)れるおほろかにすな(1456)
  • 娘子の和(こた)ふる歌一首
    • この花の一枝のうちは百種の 言持ちかねて折らえけらずや(1457)

広嗣を題材にした作品

  • 『朱盗』 - 司馬遼太郎による短編小説。『オール讀物』1960年5月号に発表。新潮文庫『果心居士の幻術』(ISBN 978-4101152233) に収録。反乱を夢想していた広嗣が、偶然から「扶余の穴蛙(あなかわず)」と名のる奇怪な百済人の男と出会い、俗世のことをまるで意に介さずに超然としているその生き方に不思議な興をかき立てられる。

脚注

出典

関連項目

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