藤原惟風
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大宰大監を経て、花山・一条朝初頭にかけて右衛門尉・検非違使と武官を務めた。長保5年(1003年)下総の国府を焼討ちして官物を掠奪したかどで平維良が越前国に逃亡した際、惟風は追捕のための押領使に任じられている[1]。
正暦年間(990年-995年)に藤原高子(藤原正雅の娘)と結婚し、のち高子は左大臣・藤原道長の娘である藤原妍子の乳母に選定される。妍子が寛弘元年(1004年)尚侍、寛弘8年(1010年)三条天皇の女御宣下と地位を向上させるにつれて、乳父にあたる惟風も昇進に与り、武蔵守・備前守と受領を務める傍ら、寛弘4年(1007年)までに従四位下への叙位を受けた。
寛弘9年(1012年)妍子が中宮に冊立されると、中宮亮となった惟風を始め、その子女は中宮司を運営する中心的な組織を構成する。惟風一族の栄達ぶりは、主人である藤原道長でさえ奇怪視するほど破格なものであったという[2]。長和2年(1013年)従四位上に至る。