藤原敏男 対 西城正三戦
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| 開催日 | 1973年3月29日 | |
| 認定王座 | ||
| 開催地 | 東京 | |
| 会場 | 後楽園ホール | |
| 観衆 | 2,200人 | |
| 放送局 | 東京12チャンネル | |
| 実況・解説 | 大沢昇(解説) 杉浦滋男(実況) | |
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| 藤原敏男 対 西城正三 | ||
| キックの荒鷲 | シンデレラボーイ | |
| 比較データ | ||
|---|---|---|
| 25 | 年齢 | 26 |
| 岩手県宮古市 | 出身地 | 埼玉県北足立郡鳩ヶ谷町 |
| 62戦55勝45KO5敗2分 | 戦績 | 16戦15勝13KO1分 |
| 168cm | 身長 | 171cm |
| 全日本キックボクシング協会ライト級チャンピオン | 評価 | WBAフェザー級チャンピオン |
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| 結果 | 3回TKO(タオル投入) | |
| 主審 | 遠山甲 | |
藤原敏男 対 西城正三戦(ふじわらとしお たい さいじょうしょうぞうせん)は、キックボクシングの試合[1][2]。開催年月日:1973年3月29日[1]、会場:後楽園ホール、主催:全日本キックボクシング協会。
試合
経緯
西城正三のキックボクシング転向が1972年4月5日付のスポーツニッポンで「西城キック転向 第1戦は王者・沢村忠を希望」と報じられ、西城の所属する協栄プロモーション代表の金平正紀と、TBSテレビの運動部長・森忠大の間で極秘に進められてきた[4]。TBSは「第二の沢村忠」「沢村忠に次ぐキックのニュースター」というポジションを西城に用意するが、金平の目論見を察知した沢村のプロモーター・野口修による猛反撃で想定外の出来事が次々に起こり、YKKアワー キックボクシング中継登場の内約は反古となった[4]。テレビが付かない状況で各地を転戦した西城を擁する協栄は、程なく東京12チャンネルと契約を結ぶに至る[4]。
漁夫の利を得た東京12チャンネルは、自社のコンテンツである全日本キックボクシング協会のエースに西城正三を据えようと企図したのである[4]。沢村忠を擁する日本キックボクシング協会に後塵を拝していた全日本キックにとって、WBAフェザー級チャンピオンを5度防衛している実績と人気に天性の甘いマスクもある西城の加入は願ってもないものだった[4]。
全日本キックボクシング協会のコミッショナーである石原慎太郎は「さきに国際式ボクシングから引退したSS(西城正三)を第二のST(沢村忠)に仕立てて稼ぎたいので、どうか了承してほしい[5]」と東京12チャンネルから理解を求められるが[4]、「それでいくならコミッショナーを辞め、記者会見でその理由についても言及する[1][5]」と返答[1][4]。キックボクシングを“マッハのスポーツ”と定義し、ボクシング同様純然たるスポーツとして見ていた石原はフェイクなど、もってのほかだった[1]。