藤原浜主 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 平安時代初期生誕 延暦4年(785年)死没 承和12年1月4日(845年2月13日)官位 従四位上、安芸守 凡例藤原浜主時代 平安時代初期生誕 延暦4年(785年)死没 承和12年1月4日(845年2月13日)官位 従四位上、安芸守主君 嵯峨天皇→淳和天皇→仁明天皇氏族 藤原北家父母 父:藤原園人、母:不詳兄弟 浜主、関主、並人妻 丹治松成の娘子 滋雄、藤原良仁室、興雄テンプレートを表示 藤原 浜主(ふじわら の はまぬし)は、平安時代初期の貴族。藤原北家、右大臣・藤原園人の長男。官位は従四位上・安芸守。 薬子の変終結後の弘仁元年(810年)11月に従六位下から四階の昇叙により従五位下に叙爵。のち、出羽介・近江権介と地方官を経て、右京亮・大学頭を歴任する。弘仁9年(818年)右大臣として太政官の首班にあった父の園人が没するが、弘仁11年(820年)従五位上、弘仁13年(822年)正五位下次いで従四位下と嵯峨朝末にかけて急速に昇進し、この間に侍従・神祇伯を務めた。 のち、天長4年(827年)従四位上・阿波守、承和7年(840年)安芸守に叙任されるなど淳和・仁明朝にて地方官を務めている。承和12年(845年)1月4日卒去。享年61。 人物 身長六尺(約182cm)の長身で、容儀に見るべきものがあった。一方で、身体が弱かった事から天皇に拝謁する事が稀であり、名家の子息でありながら、功績を残したとの評判が無く、残念な事と思われた[1]。 官歴 『六国史』による。 時期不詳:従六位下 弘仁元年(810年) 11月22日:従五位下(越階) 弘仁2年(811年) 7月23日:出羽介 弘仁3年(812年) 8月26日:近江権介 弘仁5年(814年) 7月10日:兼右京亮。7月26日:兼大学頭、近江介如元 時期不詳:侍従 弘仁11年(820年) 正月7日:従五位上 弘仁13年(822年) 正月7日:正五位下。10月1日:従四位下 時期不詳:神祇伯 天長4年(827年) 正月21日:従四位上。日付不詳:阿波守 承和7年(840年) 正月30日:安芸守 承和12年(845年) 正月4日:卒去 系譜 『尊卑分脈』による。 父:藤原園人 母:不詳 妻:丹治松成の娘[2] 男子:藤原興雄[2] 妻:生母不詳の子女 男子:藤原滋雄 女子:藤原良仁室 脚注 ↑ 『続日本後紀』承和12年1月4日条 1 2 『尊卑分脈』の諸本の中に、丹治松成の娘と藤原興雄について、浜主の甥である時相の妻子とするものもある。 出典 森田悌『日本後紀』(中下巻)講談社〈講談社学術文庫〉、2006年 森田悌『続日本後紀』(上下巻)、講談社〈講談社学術文庫〉、2010年 『尊卑分脈 第一篇』吉川弘文館、1987年 Related Articles