藤原清綱
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当初は祖父の藤原経清と同じく亘理郡を拠点とし、中嶋舘に居城して亘理権十郎を名乗り、その後平泉へ移った。子の俊衡の代には紫波郡日詰の樋爪館(比爪館)に居を構えていた。
「ひづめ」の語源は、当時この一帯が北上川の船場として栄えており、アイヌ語のピッツ・ムイ(河原の港)が転訛したものとされる[4]。
同氏の支配地域は現在の紫波町から矢巾町、盛岡市厨川柵に達し、平泉の北に本拠を構え、奥州藤原氏一族の中でも要所を成したが、清綱の子孫は源頼朝の奥州攻めに屈して降伏した[5]。『吾妻鏡』によれば、文治5年(1189年)9月15日、樋爪俊衡と息子の太田師衡・兼衡、河北忠衡、樋爪季衡と息子の新田経衡が降伏したとある。頼朝は俊衡の所領を安堵したが、他の者は関東各地に流罪とした。