藤原維幾 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 平安時代(中期)官位 従五位、常陸介[注 1]氏族 藤原南家乙麻呂流工藤氏父母 父:藤原清夏 凡例藤原 維幾時代 平安時代(中期)官位 従五位、常陸介[注 1]氏族 藤原南家乙麻呂流工藤氏父母 父:藤原清夏妻 高望王の娘子 為憲テンプレートを表示 藤原 維幾(ふじわらの これちか)は、平安時代中期の貴族・武将。 藤原南家乙麻呂流、藤原清夏の子。藤原高扶の孫。官位は常陸介、従五位。 平将門の乱の時、常陸国の住人である藤原玄明が租税を納めず、乱暴を働き、官物を盗んだとして維幾と対立し、玄明に追捕令を出した。その後、玄明は妻子を連れて平将門の元へ逃げ、匿われた。そこで維幾は将門に玄明の受け渡しを要求したが将門はこれを拒否した。そうして天慶2年(939年)11月、維幾と将門は戦いとなり、維幾の兵は将門の兵より数では優っていたが、敗北し国府に逃げ帰った。そして勢いに乗った将門は国府を包囲し、これに勝機なしとみた維幾は降伏し、国府の印璽を差し出した。 維幾の敗北の意味 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)出典検索?: "藤原維幾" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2024年2月) 敗北した維幾は国府の印璽を差し出したが、印璽とは朝廷の権限を象徴するものである。したがってこれは将門が国司から常陸を奪ったことと同義といえる。そしてここから将門の戦いが私闘から反乱へと変わっていった。 脚注 注釈 ↑ 天長3年(826年)に常陸国が親王任国とされてからは、「常陸介」が実質的な実務上の最高位であり、官位は養老律令の官位令が定める大国の官位相当の介の正六位下ではなく、従五位以上である。 出典 外部リンク 『藤原維幾』 - コトバンク Related Articles