Wikiwand AI

藤原綱継

From Wikipedia, the free encyclopedia

時代 平安時代初期
生誕 天平宝字7年(763年)
別名 縄継
 
藤原綱継
時代 平安時代初期
生誕 天平宝字7年(763年)
死没 承和14年7月26日(847年9月9日)
別名 縄継
官位 正三位、参議、贈正二位
主君 桓武天皇→平城天皇→嵯峨天皇→淳和天皇→仁明天皇
氏族 藤原式家
父母 父:藤原蔵下麻呂
母:乙訓女王(掃守王の娘)
兄弟 宗継、縄主、綱継、網主、浄本、八綱、清綱、姉子、藤原真友室
妻 藤原姉子(藤原蔵下麻呂の娘)
子 吉野、吉永、承吉
テンプレートを表示

藤原 綱継(ふじわら の つなつぐ)は、平安時代初期の公卿。藤原式家、参議・藤原蔵下麻呂の五男[1]。官位は正三位・参議、贈正二位。

皇太子・安殿親王の春宮少・大進、民部大丞を経て、延暦22年(803年)41歳でようやく従五位下に叙せられるが、叙爵以降は比較的順調に昇進していく。延暦25年(806年)桓武天皇の崩御後まもなく少納言に任ぜられ、同年5月安殿親王の即位(平城天皇)に伴い従五位上に昇叙される。平城朝では少納言の他左衛門督を務めた。

大同4年(809年)嵯峨天皇が即位すると侍従に任ぜられ、翌大同5年(810年)正五位下に昇叙。嵯峨朝では民部大輔・大舎人頭・右京大夫・兵部大輔・神祇伯を歴任し、弘仁5年(814年)には従四位下に叙せられている。

弘仁14年(823年)淳和天皇の即位に伴い従四位上・左兵衛督に叙任され、翌天長元年(824年)蔵人頭、天長2年(825年)には参議に任官し公卿に列した。議政官として右京大夫・兵部卿を兼ね、天長5年(828年)正月に正四位下に叙せられるが、同年5月には子・吉野に参議の官職を譲り自らは致仕した。その後、山井里第に隠棲するが、吉野が淳和天皇の側近として昇進していく傍らで、綱継自身も天長7年(830年)従三位に叙せられている。

仁明朝の承和8年(841年)正三位に至る。その後の承和の変に伴う吉野の失脚(承和9年〔842年〕)及びその死去(承和13年〔846年〕)よりさらに長命を保ち、承和14年(847年)7月26日薨去。享年85。最終官位は致仕参議正三位。没後正二位の位階が贈られた。

官歴

注記のないものは『六国史』による。

系譜

脚注

出典

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks