藤原長房
From Wikipedia, the free encyclopedia
長房の代の頃は、中関白家の一門全体が不遇であり、長房自身も参議止まりであった。大宰大弐在任中の嘉保元年(1094年)彦山衆徒が訴訟のため蜂起して大宰府政庁に押し掛けたが、これに驚いてなす術もなかった長房は任期途中で辞職して都に逃げ帰ったため、世間から半大弐と呼ばれて笑われた。康和元年(1099年)9月病のため出家し、にわかに薨去した。享年70。後世になっても、長房の子孫は振るわなかった。
和歌を得意とし、『後拾遺和歌集』以下の勅撰集に6首入集する勅撰歌人でもある。若年の時から後冷泉天皇が催した内裏歌合などに出詠した。『袋草紙』によると、長房は常々「秀歌一首持つは歌読み、二首持つは上手、三首は有り難き事なり」と持論を語り、自身が3首の秀歌を持っていることを自慢していたという。