藤原雄
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岡山県備前市(当時の和気郡伊里村)穂浪出身[1]。藤原啓の長男として生まれる[1]。1951年、明治大学文学部 日本文学科に進学。1955年、同大学を卒業後、みすず書房に就職[1]。しかし同年9月、父親の看病のために休職して帰郷。小山富士夫に備前焼を勧められ、父に師事して技法を学びはじめる。1957年、結婚。
1958年、第5回日本伝統工芸展に初入選[1]。長男・和が誕生する。1961年、日本工芸会より正会員に認定された[1]。1963年、スペインのバルセロナで開催された国際陶芸展でグランプリを受賞する[1]。1964年、アメリカ現代陶芸美術館やカナダのポイントクレーヤーで、海外初の個展を開催する。同年以降、アメリカ、カナダ、メキシコ、スペインなどで備前焼の講義をたびたび行う[1]。1965年、棟方志功と共にアメリカ・ダートマス大学の客員教授を務める。これ以降も国内外で多くの作品を発表し、その評価が高まってゆく。後にメトロポリタン美術館や大英博物館にも作品が収蔵された。1967年、陶芸家として独立[1]。同年、日本陶磁協会賞を受賞[1]。
1985年、紺綬褒章受章。1988年、社団法人日本工芸会理事に就任。同年、日本人として初めて、韓国国立現代美術館にて「備前一千年、そして今、藤原雄の世界展」を開催[1]。1991年、「焼き締め陶公募展」を開催し、実行委員長を務める。
1996年、倉敷芸術科学大学芸術学部教授に就任[1]。同年5月10日、重要無形文化財「備前焼」保持者に認定[1]。2代にわたっての人間国宝となった。1998年、紫綬褒章受章[1]。1999年、倉敷芸術科学大学教授を退任[1]。
人物
- 視力が右目は0.03、左目は全く無いという身体異常があったが、健常者同様に進学する事に父親はこだわり続けたという。青年時代は文学や音楽に熱中していたという。
- 備前焼の伝統を重んじながらも、新しい感性に溢れた作品作りを追求。「焼き締め陶公募展」を開催し実行委員長を務め、後進の発掘と育成にも力を注いだ。
- 交友関係を持っていた人物の一人に連続試合出場記録を持っていた衣笠祥雄がいる。1996年、カル・リプケン・ジュニアがその記録を破ったとき、衣笠はその試合に招かれていたが、その試合が終了した後、衣笠は藤原の備前焼の大皿をプレゼントしたという。
- 息子は同じく陶芸家であり陶心会会長・備前陶友会理事を務める藤原和である。作詞家のNOBEは遠縁にあたる。