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藤原顕保

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時代 平安時代後期
生誕 嘉承元年(1106年)以前?
 
藤原 顕保
時代 平安時代後期
生誕 嘉承元年(1106年)以前?
死没 天養2年4月4日(1145年5月4日)
官位 正四位下、播磨守
主君 鳥羽天皇→崇徳天皇→近衛天皇
氏族 藤原北家魚名流
父母 父:藤原家保、母:藤原宗子(藤原隆宗の娘)
兄弟 顕保、家成、家長、保説、保成、家房、家保、宗保、頼保、覚芸、藤原忠宗室、源雅通室
子 宗頼、頼実、顕修
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藤原 顕保(ふじわら の あきやす、生年不詳 - 天養2年4月4日〈1145年4月27日〉)は、平安時代後期の公家。藤原北家魚名流、参議・藤原家保の長男。官位は正四位下・播磨守。

参議・藤原家保の長男として誕生。生年は不明だが、同母弟の家成が嘉承2年(1107年)生まれのため、嘉承元年(1106年)かそれ以前と推定される。

白河院政期後期から鳥羽院政期前期にかけて、土佐守・美濃守と受領を歴任。この間の大治5年(1130年)正四位下に叙せられている。保延元年(1135年)修理大夫に任ぜられると、保延3年(1137年)皇后宮権亮を兼ねるなど、一時京官も務めた。

保延6年(1140年)ごろ越前守に任ぜられると、康治元年(1142年)ごろ播磨守と、鳥羽院政期中期には再び受領を歴任している。

天養2年(1145年)播磨守在任中に卒去。顕保はよく人の悪口を言っていたため、天罰が下り口がただれて食事がとれずに亡くなったという(『台記』)[1]。

官歴

系譜

脚注

参考文献

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