藤田俊三
From Wikipedia, the free encyclopedia
1886年(明治19年)2月6日、判事補を務める藤田菊江の三男としてその赴任先で生まれる[3]。父・菊江は翌年3月に判検事登用試験に合格し、一家は大阪、四日市、名古屋、那覇など赴任先が変わる度に転居した[注釈 1]。俊三は1903年(明治36年)に東京の第一高等学校二部へ入学。同窓生には後に旧経済団体連合会の初代会長を務める石川一郎がいる[6]。1906年7月に卒業[注釈 2]すると、他の多くの一高生と同じく東京帝国大学に進学し、1909年(明治42年)に採鉱冶金科を卒業。田中長兵衛が経営する岩手県の釜石製鉄所に就職[注釈 3]し、初代所長・横山久太郎のもとで製鋼課長などを務めた[9][10]。
その後組織が株式会社化され、1917年(大正6年)春に田中鉱山設立。事業拡大のため設備投資などが行われたが、1918年に第一次世界大戦が終結すると鉄の価格が暴落した。長期的な不況の中で会社は財政破綻の危機を迎え、1924年(大正13年)3月にはついに事業が田中から三井へ譲渡。俊三は一時東京の本社へ転勤となったが、新所長に就任した西村小次郎が俊三の製鉄知識を必要と判断したため釜石へ呼び戻された。以後引き続き同製鉄所に勤め、1934年(昭和9年)に会社が合併により日本製鐵となった際には釜石製鉄所の技師長に任命される[11]。1936年(昭和11年)12月、当時の所長・古井保太郎が本社勤務となり、俊三が第6代釜石製鉄所所長の任に就いた[12]。補佐役の事務長職は古井所長の時から引き続き三鬼隆が務めている。その後1940年(昭和15年)の6月、中原津に所長職を託し日鉄鉱業の取締役に就任。1943年に満州特殊鉄鉱[13]の技術部長兼専務取締役として満州新京へ渡り[14]、推されて社長となる[15]。終戦後は公職追放[16]。1949年(昭和24年)に中田義算が岩手木炭製鉄を設立し、その僅か2年後に急逝した際には、当時日本製鉄社長を務めていた三鬼の推薦を受けて俊三が社長に就任[注釈 4]。三鬼は推薦した以上は責任を持つという姿勢で、岩手木炭製鉄に対し資金面も含め様々な支援を続けた。俊三は1965年(昭和40年)より同社会長を、1969年より相談役を務めている[18]。

