藤田小女姫
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ふじた こととめ 藤田 小女姫 | |
|---|---|
| 生誕 |
藤田 東亞子 1938年1月4日 |
| 死没 |
1994年2月23日(56歳没) |
| 死因 | 銃殺 |
| 国籍 |
|
| 別名 | 藤田小乙姫 |
| 職業 |
経営コンサルタント 占い師 |
| 活動期間 | 1949年 - 1994年 |
| 肩書き | 天才少女占い師、千里眼少女 |
| 子供 | 息子1人 |
藤田 小女姫(ふじた こととめ、本名:藤田 東亞子〈ふじた とあこ〉、1938年〈昭和13年〉1月4日 - 1994年〈平成6年〉2月23日)は、日本の経営コンサルタント、占い師[1]。フジタインターナショナルエンタープライズ主宰[1]。
福岡県福岡市出身[1]。11歳で「天才少女占い師」「千里眼少女」としてマスコミに登場し、時代の寵児となる[1]。別名は藤田小乙姫とも。
1938年、福岡県福岡市に生まれる。幼いころ両親が離婚し、父親と生き別れる[2]。太平洋戦争で実家が空襲に遭ったため、知人を頼って各地を転々とする[2]。
1950年、小学校6年生のとき、『産業経済新聞(サンケイ新聞東京)』(5月1日付、現在は『産経新聞』)の社会面トップにて「奇跡の少女現る マリを突きながら何でもズバリ」との見出しで占いがよく当たる少女として紹介[2]、当時は「ことど姫」と名乗っていた。その後、産業経済新聞社長だった前田久吉が産経ビルの中に事務所を与えて占い屋を開業させた[3]。前田の後任となった水野成夫は、新聞社の顔というべき題字の運勢を占わせ、小女姫が漢字の『産経』はカタカナの『サンケイ』にしたほうがよいと占うと、水野は迷いなくそれに従うなど[4]、経営陣からかわいがられた[2]。
昭和30、40年代にも霊感を持つ占い師として雑誌やテレビで取り上げられた。
岸信介、福田赳夫、松下幸之助、小佐野賢治など政財界の大物を顧客として財を成す。ある日、岸が小女姫に「安保条約は通らんか?」とたずねたところ、小女姫は「断固としておやんなさい。通ります。その代わりに、あなたの内閣は長く持ちませんよ」と答えた。1960年6月19日、日米新安全保障条約は成立するが、4日後に岸内閣は総辞職する[5]。また、明仁親王(のちの第125代天皇→上皇)の結婚、朴正煕暗殺事件、中国首相・周恩来の死などの予言を的中させたという[2]。そのほか、学生時代の王貞治に対して「将来、野球で大成功を収める」と占った逸話は特に有名。
1961年、不動産業者と結婚するが、3年で離婚した[2]。1968年3月13日に名目上の経営者となっていたサウナが火事で死者を出す惨事となり、経営者責任を問われ[2]、刑事裁判で1974年6月25日に業務上失火、同過失致死罪で懲役10ヵ月、執行猶予3年の有罪判決が下された[6]。これらを契機に、その占いの能力についてマスメディアから疑問を投げかける批判が起こり、応援してきた年配の有力者たちも離れていった[2]。
1994年2月23日、一人息子[注釈 1]の知人に自宅高層マンションで射殺され、息子も別の場所で銃撃され焼死体で見つかった。その後、逮捕された容疑者は、第2級殺人罪で終身刑を言い渡された[7]。
謎の多かった小女姫の人生については、実弟の藤田洋三が自著『東亜子と洋三・藤田小女姫の真実』(出版研、2004年刊)にて詳しく語っている。
過去の出演番組
著書
- 『幸運への招待』産経新聞出版局、1960年12月。NDLJP:2936511。
- 『あなたの運を3倍よくする本―世界的予言者藤田小乙姫の先見力』山手書房、1982年10月。
- 『藤田小乙姫の女性の運をすばらしくよくする本』山手書房、1983年4月。
- 『不思議な力が運命を変える』講談社、1986年2月。ISBN 978-4062022002。
- 『藤田小女姫の最後のメッセージ―死の直前に披瀝した運の恐さ』文化創作出版、1994年3月。ISBN 978-4893870858。
この他、『吉田健一対談集成』(小沢書店、1998年)に「幽霊は生きている」のタイトルで吉田健一との対談が収録されている(初出「中央公論」1958年8月号)。