1901年、山口県下関市で生まれた。第五高等学校に入学。在学中から短歌雑誌「白路」を通して作歌活動を行っており、後に小説家となる林房雄や国文学者となる森本治吉、中島光風らと交友を結んだ[1]。東京帝国大学文学部に入学し、国文学を専攻して卒業。
その後は、浦和高等学校教授に就任。和歌は佐佐木信綱に師事、日本の歌謡を研究した。1941年、大東塾塾長の影山正治が主宰する歌道普及を目的とした全国組織「新国学協会」が発足すると、その中に加わった。また、愛国百人一首の選定に当たるなど戦時下では国粋主義的な立場をとった。しかしながら、1945年6月29日の下関空襲により死去[2][3]。