藤田文江
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1908年9月29日[1]に鹿児島県大島郡名瀬村(現・奄美市)[2]で生まれ、鹿児島市、台湾と転居し、14歳まで台湾で過ごす[3]。台北第二高等女学校に入学。再び鹿児島に転居し、鹿児島県立第二高等女学校(現・鹿児島県立甲南高等学校)に編入[3]。1925年に鹿児島県立第二高等女学校を卒業[1][3][4]。鹿児島女子師範学校(現・鹿児島大学教育学部)に進学、1926年に卒業し小学校教師になるが、病弱のため退職[1][2]。その後鹿児島女子師範学校の専攻科に進学。
鹿児島県立第二高等女学校時代に詩作を始める。1926年、新屋敷幸繁七高教授が発行する詩誌「南方楽園」に参加[2][3][4]。1929年、新屋敷つる子(幸繁の妻)が主宰する女性詩誌「くれない」の同人にもなるが[1][3]、「くれない」第4号で脱退。脱退の背景にはつる子からの文江の文才に対する嫉妬心や互いの幸繁への思慕の情を巡る感情があったとされる[4]。1930年に[3]詩誌「松籟」を創刊し、その後「プラナス」も創刊[1][4]。また、宮崎孝政編集の「詩神」に掲載した詩で1930年に新人推薦をうける。1931年には「詩神」の新人同人仲間と岡山で「タテガミ」(間野捷魯・編集)を発行[4]。1931年、詩誌「鬣」の同人となるが、1932年に「鬣」は終刊。詩誌「牧神」[3]、「茉莉」などへも詩を発表。また、永瀬清子と文通をおこなう[2]。1933年、万国婦人子供博覧会に応募した詩が一等入選し、コロンビアから信時潔作曲でレコード化される[2][3]。地元の鹿児島新聞(後の南日本新聞)に「昭和鹿児島の紫式部」と讃えられる[2][1]。
第一詩集『夜の聲』の刊行直前の1933年4月、新屋敷幸繁宅を訪問中に腹痛を急発し逝去[2][1][3][4]。死因は急死急性膵臓炎[1]や急性穿孔性盲腸炎[4]とされる。満24歳没[1][2]。