藤野昌言
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1832年(天保3年)、備後国芦田郡府中市村(現広島県府中市)で代々医業を行っていた藤野元英の長男として生まれた[1][注釈 1]。大阪で医学を修め、父親の死により19歳で府中に帰って医業に専念した[1]。貧しい時代に困窮していた人の治療費もとらず、生活の面倒を見ていたともいわれ、正に「医は仁術なり」を言葉通り実行した[2]。1879年(明治12年)、府中市にコレラが猛威を振るったとき、多くの医者が恐れる中で敢然として患者の手当をして救い、遂に自身もコレラに感染し48歳で没した[3]。
親交のあった五弓久文(雪窓)による頌徳の碑文『藤野国手祠堂記』には、「医術は本来今日のためにあるのだ、我が義のために身を虎口におく。安逸を好み労をいとうて座視することが出来ようか。」という藤野の発言が記されている[1]「国手」とは、名医は国の病をも治すという古語から医師に対する最高の尊称である[1]。