袁渙の四男として建安年間に生まれた。竹林の七賢の一人である嵆康に師事した。袁準は嵆康が得意とした「広陵散」と呼ばれる琴の曲の教授を何度も願ったが、嵆康は惜しみ、これを教えなかった。嵆康は讒言によって死罪となり刑の直前にこの曲を演奏し「広陵散、今に於いて絶ゆ」と言い残し処刑されたという[1]。
袁準は忠信公正で知られ、人に教授を請うことを恥じなかった、世情が険しくなったため、あえて栄達を望まず、多くの著書を残し、治世について談論した[2]。俊才として名声を博し、西晋の泰始年間のごろには給事中を務めていたと言う[3]。著作に『儀礼喪服経注』1巻・『袁子正論』19巻・『袁子正書』25巻・『袁子集』2巻などがある[4]。