袁滋
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幼くして学問に勉励し、異父兄の元結のもとを往来して頼った。読書するたびに、奥義を理解して、元結に重んじられた。ほどなく黜陟使の趙賛の推薦により、校書郎に試用された。何士幹が鄂岳観察使に出向すると、袁滋は召し出されて従事となり、太子詹事府司直に累進した。あるとき邑長が金を盗んだと下吏に誣告されたが、袁滋はその冤罪を察知して、出獄させた。御史中丞の韋縚の推薦により侍御史となり、工部員外郎に転じた[1][2]。
貞元9年(793年)、剣南西川節度使の韋皐が吐蕃に対抗するため、南詔の異牟尋と結ぶと、徳宗は南詔に対する使節を選抜した[1][2]。貞元10年(794年)、袁滋は祠部郎中として、御史中丞を兼ね、持節・入南詔使をつとめた[3]。翌年夏、使節が帰国すると、袁滋は諫議大夫に抜擢された。まもなく尚書右丞に任じられ、知吏部選補をつとめた[4][2]。貞元16年(800年)、華州刺史・潼関防禦・鎮国軍使として出向し、御史中丞を兼ねた[5]。寛容で清廉簡素な統治をおこなった[6][2]。
貞元21年(805年)、袁滋は中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)となった[7]。永貞元年(同年)、韋皐が死去し、劉闢が反乱を起こすと、袁滋は検校吏部尚書・同平章事・剣南西川節度使に任じられて安撫にあたることとなった[6][2]。ひとつところに留まって進まなかったため、吉州刺史に左遷された[8]。元和元年(806年)、御史大夫となり、義成軍節度使をつとめた[9]。元和7年(812年)、長安に召還されて戸部尚書に任じられた[10]。元和8年(813年)、検校兵部尚書・襄州刺史となり、山南東道節度使をつとめた[11]。元和9年(814年)、検校兵部尚書のまま、江陵尹・荊南節度使となった[12]。元和11年(816年)、唐州刺史・淮西節度使となった[13]。元和12年(817年)、呉元済の乱を討つのに消極的で功績がなかったため、撫州刺史に左遷された[14]。ほどなく湖南観察使に転じた[15]。元和13年(818年)6月13日、死去した[16]。享年は70。太子少保の位を追贈された[6][17]。
袁滋は篆書や籀書を得意とし、古代の書法に優れた。著書に『雲南記』5巻があった。かつて劉暉の「悲甘陵賦」を読んで、その勧善懲悪が『春秋』の主旨を逸脱しているのを批判しつつ、その文は廃されるべきではないとして、「甘陵賦後序」を書いた[6][17]。