裴玢

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裴 玢(はい ひん、748年 - 812年)は、唐代官僚軍人本貫京兆府[1][2]

疏勒国王の裴綽の五世の孫にあたる。はじめ金吾将軍の論惟明の従者となった。建中4年(783年)、徳宗につき従って奉天に赴き、戦功により忠義郡王に封じられた。貞元2年(786年)、論惟明が鄜坊に駐屯すると、裴玢はその下で都虞候をつとめた。貞元19年(803年)、鄜坊節度使の王栖曜が死去すると、中軍将の何朝宗が反乱を計画し、夜間に火を放った。裴玢は身を匿して火事を放置し、遅く明け方になって何朝宗を捕らえた。徳宗は三司使を派遣して事件を糾問させ、何朝宗と行軍司馬の崔輅を斬った。同州刺史の劉公済が鄜坊節度使となると、裴玢は坊州長史となり、侍御史を兼ね、鄜坊行軍司馬をつとめた[3][2]。貞元20年(804年)、劉公済が工部尚書となると[4]、裴玢は鄜州刺史に任じられ、御史大夫を兼ね、鄜坊節度観察等使となった[5][2]元和3年(808年)、興元尹・山南西道節度使に転じた[6]。元和7年(812年)2月辛亥、死去した[7]。享年は65。尚書左僕射の位を追贈された、は節といった[5][2]

脚注

伝記資料

参考文献

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