裴羽
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唐末の宰相裴贄の子として生まれた。若くして父の蔭官により寿安県尉となった。後梁に入って、御史台主簿となり、監察御史に転じた。後唐の明宗のとき、吏部郎中に任じられ、閩への使節をつとめたが、海上で暴風に遭って、杭州に漂着した。ときに後唐は安重誨の画策で呉越王銭鏐の封爵を剥奪していたことから、裴羽は杭州に抑留され、歳月を経ても帰国できなかった。のちに安重誨が死去し、呉越が後唐との通交を回復すると、裴羽はようやく帰国できた。後晋のとき、礼部侍郎・太常寺卿に累進した[1][2]。開運3年(946年)、給事中となった[3]。後周の広順元年(951年)、左散騎常侍となり、死去した。戸部尚書の位を追贈された[1][2]。