裴行儼

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裴元慶(說唐演義全傳)

裴行儼(? - 619年)、字は守敬、河東郡河東県(現在の山西省永済市)出身。隋唐時代の武将で、礼部尚書裴仁基の子。驍勇に長け、「万人敵」と称された。後世、小説や講談『説唐全伝』『興唐伝』などの作品中のキャラクター・裴元慶のモデルとされている。

隋の大業13年(617年)、裴仁基は命を受けて軍を率いて瓦崗寨を討伐し、勝利を収めたものの、監軍御史の蕭懷静から繰り返し陥れられた。裴仁基と裴行儼は蕭懷静を殺害した後、配下を率いて瓦崗寨に帰順した。裴行儼は上柱国・絳郡公に封じられた。

唐の武德元年(618年)、李密と王世充が対峙する中、裴仁基は洛陽を急襲する計略を献策したが、李密には採用されなかった。後に王世充が単雄信の陣営を急襲すると、程咬金と裴行儼が救援に向かい、裴行儼は流れ矢に当たり馬から墜落した。程咬金は馬を駆って救援し、多数を殺害して裴行儼を救出した。間もなく李密が大敗し、裴父子はともに王世充の捕虜となる。王世充は自身の兄の娘を裴行儼に娶わせた。

唐の武德2年(619年)4月、王世充が帝位に即くと、裴行儼は左輔大将軍に任じられた。裴行儼は戦うごとに敵を寄せ付けず、「万人敵」と称された。しかし王世充は次第に猜疑の念を抱くようになる。同年5月、裴仁基と裴行儼、尚書左丞の宇文儒童、尚食直長の陳謙、秘書丞の崔德本ら数十名が謀反を計画した。しかし、将軍の張童仁がその計画を察知し、王世充に密告したため、裴仁基らは処刑され、三族皆殺しにされた。

評価

  • 隋書』:行儼が戦いに出るたび、どこへ向かっても敵をなぎ倒し、『万人敵』と称えられていた。[1]
  • 資治通鑑』:仁基の息子・行儼は、驍勇で戦いに長けていた。[2]

後世の創作

伝記資料

脚注

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