裴行儼
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隋の大業13年(617年)、裴仁基は命を受けて軍を率いて瓦崗寨を討伐し、勝利を収めたものの、監軍御史の蕭懷静から繰り返し陥れられた。裴仁基と裴行儼は蕭懷静を殺害した後、配下を率いて瓦崗寨に帰順した。裴行儼は上柱国・絳郡公に封じられた。
唐の武德元年(618年)、李密と王世充が対峙する中、裴仁基は洛陽を急襲する計略を献策したが、李密には採用されなかった。後に王世充が単雄信の陣営を急襲すると、程咬金と裴行儼が救援に向かい、裴行儼は流れ矢に当たり馬から墜落した。程咬金は馬を駆って救援し、多数を殺害して裴行儼を救出した。間もなく李密が大敗し、裴父子はともに王世充の捕虜となる。王世充は自身の兄の娘を裴行儼に娶わせた。
唐の武德2年(619年)4月、王世充が帝位に即くと、裴行儼は左輔大将軍に任じられた。裴行儼は戦うごとに敵を寄せ付けず、「万人敵」と称された。しかし王世充は次第に猜疑の念を抱くようになる。同年5月、裴仁基と裴行儼、尚書左丞の宇文儒童、尚食直長の陳謙、秘書丞の崔德本ら数十名が謀反を計画した。しかし、将軍の張童仁がその計画を察知し、王世充に密告したため、裴仁基らは処刑され、三族皆殺しにされた。
評価
後世の創作

『隋唐両朝志伝』、『唐書志伝通俗演義』、『隋史遺文』などの小説における裴行儼の事績は、歴史上の記録とほぼ同様である。一方、『説唐全伝』およびその後の創作物において、彼を原型として生まれた裴元慶のキャラクターは、より豊かで立体的な形象として描かれている。以下、『説唐全伝』を中心に解説する。
説唐全伝
『説唐全伝』において、裴元慶は隋唐第三番の豪傑とされ、天界を巡る都太保・八本腕の哪吒が地上に転生した存在とされる。武器は二振りの鉄錘で、大きさは五升枡ほど、重さ三百斤。愛馬の名は「抓地虎」(地を掴む虎)と呼ばれた。
隋の靠山王・楊林と昌平王・邱瑞が瓦崗を二度攻めて失敗した後、隋の丞相・宇文化及は煬帝・楊広に、裴仁基・裴元慶父子を推薦して瓦崗討伐に向かわせるよう進言した。ただし、宇文化及は彼らが功績を独占することを恐れ、自分の養子・張大賓を総大将に据え、裴父子を正副の先鋒として瓦崗と戦わせた。裴元慶は瓦崗の将たちを打ち破ったが、張大賓から「裴仁基は息子を惜しんで全力を出さない」と誣告され、父子三人は営門の外に引き出され斬首されようとする。これを知った裴元慶は皇帝の無道と奸臣の専横を激しく罵り、「もはや忠義を尽くしても無駄だ」と悟り、瓦崗への投降を決意。父子は城壁の上にいた程咬金に向かって、奸臣に謀られたため投降に来たと告げた。こうして裴元慶は十万の兵を率いて瓦崗に帰順し、裴仁基は逍遥王、裴元慶は斉眉一字王に封じられ、歓待の宴が設けられた。[3][4][5]
その後、瓦崗寨が孟海公の偽詔を受けると、裴元慶は先鋒に任命され、秦瓊が指揮する二十万の軍に従い四明山へ赴き、十八路反王による煬帝襲撃計画に加わった。宇文成都が雄闊海、伍雲召、伍天錫の三傑を半日にわたり圧倒して追撃するさなか、裴元慶が山中から突然飛び出し、双鎚で宇文成都の鎏金鏜を迎え撃った。一撃の衝撃で宇文成都は虎口を割り、ついに支えきれずに敗走。裴元慶はその勢いのまま雷のごとく煬帝の龍舟に迫り、宇文化及は慌てて退却の銅鑼を鳴らさせた。[6]
その後、李淵の命で救駕に現れた李元霸が秦叔宝を破り、裴元慶と遭遇する。李元霸は裴元慶の頭上に(味方を示す)黄旗がないのを見て錘を打ち下ろし、裴元慶はこれを受けた。裴元慶は李元霸の第一撃をどうにか受け止めたが、第二撃では支えきれなくなり、第三撃を受けるとついに耐え切れず、馬を返して敗走した。[7]
李元霸によって十八路反王の軍勢が散り散りになる中、靠山王・楊林が後山に伏兵を配置し退路を遮った。しかし、ちょうど一人で敗走していた裴元慶と遭遇する。裴元慶は李元霸に敗れた無念さを晴らそうとしていたところだった。楊林は時勢をわきまえずに立ちはだかったため、裴元慶は怒りに任せて錘を振るう。楊林が双棒の囚龍棒で受け止めたが、棒は真っ二つに折れ、虎口は裂けて両手から血が流れ、大敗して逃げ去った。[8]
その後、紅泥関の総兵・新文礼が瓦崗討伐に来た際、たまたま糧秣を輸送中だった裴元慶は、陣営の外で罵りながら挑戦してくる新文礼を見て激怒する。糧秣の護送を部下に任せると、双錘を手に新文礼と交戦した。新文礼が鉄方槊を頭上に振り下ろすと、裴元慶は鎚でこれを迎え撃ち、一撃で鉄方槊をへし折り、新文礼の虎口からも血を噴出させて敗走させた。裴元慶が執拗に追撃すると、城上の兵士は慌てて吊り橋を下ろした。新文礼が吊り橋に駆け上がった瞬間、追い付いた裴元慶がその馬の臀部を錘で打ち、新文礼は水中に転落した。裴元慶がさらに関門を奪おうとしたが、城上から雨あられと矢が降り注いだため、未だ引き渡しを完了していない糧秣のことを考え、やむなく馬を返して引き上げた。城兵は城外に出て新文礼を救い上げた。[9]
傷が癒えた新文礼は尚師徒と謀り、まず裴元慶を除くことを計画した。尚師徒が耳打ちして一計を授ける。新文礼は配下を遣わし、城南の慶墜山に地雷火砲をひそかに埋めさせ、石壁の上では兵士に籠とロープを準備させた。翌日、新文礼は城下に現れ、ただ裴元慶のみを挑発した。この報せを受けた裴元慶は出戦しようとし、徐茂公が懸命に諫めたが聞き入れず、出陣してしまう。徐茂公はただ不吉がるばかりであった。裴元慶は新文礼を見るなり錘を打ちかけた。新文礼は一撃受け流すと、南へ向かって逃げ始め、裴元慶は猛追した。新文礼は戦いながら退却し、裴元慶を慶墜山の奥深くへ誘い込んだ。両側が石壁の狭隘地に入ると、入口は外の兵士によって塞がれ、石壁の上から籠が下ろされて新文礼はそれに乗り、上へと引き上げられた。そして、火矢と油、乾いた柴が投げ下ろされ、地雷が点火されると、たちまち業火が渦巻き、裴元慶は火雷陣の中で命を落としたのである。[10]
興唐伝
『興唐伝』 において、裴元慶を美少年武将のイメージとして描いている。武器は、一対で六百斤ある八稜梅花亮銀錘(八稜形に刻まれた梅の花模様の輝く銀の錘)を使用する。
場面として、楊広(煬帝) は裴元慶の力を試すため、宮殿外にある千鈞の鼎を持ち上げるよう命じた。裴元慶は宮殿の門の外へ出ると、腰を低くし、右手で鼎の中央の取っ手(椽)を掴み、左手で鼎の縁(口)を押さえ、一気に力を込めて鼎を持ち上げた。そして鼎の台座を一周するように回り、再び鼎を元の台座に据えた。これを見た楊広は、その神業のような力に驚嘆したとされる。[11]
その勇猛さから宇文化及に推薦され、瓦崗軍討伐に向かうこととなった裴元慶は、都で皇帝に拝謁した後、父と共に丞相・宇文化及への挨拶に赴いた。相府で宇文成都と出会った裴元慶は、十余歳の若将であることを活かし、あえて力を弱め、錘の技も乱れているように装って宇文成都を立てた。これを気に入った宇文成都は彼を相府に十数日留め、自らが学んだ錘の技を伝授し、力と技術を指導したことで、裴元慶の武芸は飛躍的に向上した。[12]
瓦崗寨前で戦いを挑んだ裴元慶は、十三、四歳の少年と見くびられながらも、呉季、張千を一撃で馬から落とし、小覇王・翟譲を二合で敗走させた。瓦崗五虎の筆頭・単雄信も四、五合で退け、程咬金は一撃で虎口を震わせ敗退した。その後、徐茂公の計略により家族が瓦崗に帰順したことに加え、高慢だった裴元慶は秦瓊の「撒手鐧」(投げつけ技)に敗れ、母の諫めもありついに瓦崗軍に降った。[13][14]
四平山で十八路反王に包囲された煬帝は宇文成都を迎撃に出した。無敵将・宇文成都が伍雲召、伍天錫、雄闊海の三傑を破り疲弊していた時、満身の力をもって現れた裴元慶は数撃で彼を打ち破り敗走させた。しかし、その直後に現れた真の無敵将・李元霸には三撃で敗北し、馬も傷め、面目を失った裴元慶は故郷に戻り武芸に励んだ。[15][16]
その後、出家した定彦平と出会い半年間指導を受け、錘技をさらに磨くとともに竜頭鎖錘(別名:飛竜奪命錘、二本の鎖付き。各ハンマーの柄の末端には輪が付いており、長さ七尺の短い鎖の両端をそれらの輪に繋ぐことで、流星錘のように投擲攻撃が可能)も習得した。瓦崗軍が泗水関に迫った時、守将・左天成に連敗した秦瓊の要請で出陣した裴元慶は、以前より強力になった錘技で左天成を圧倒。追撃中に流星錘を放ち、彼を崖下に落とした。[17][18]
続く東嶺関の戦いでは、楊義臣が布いた「銅旗陣」に対し、李元霸、秦用、梁師徒らと「八大錘」として連携。羅成の内応もあり、四方から旗杆を破壊して銅旗陣を崩壊させた。しかし、その後の黒風崗の襲撃で、裴元慶は敵将・聶世雄の飛刀を受け、戦死した。[19]
瓦崗英雄
単田芳の作品『瓦崗英雄』において、裴元慶は紫陽真人から武芸を授かり、驚異的な膂力と重い鉄鎚を操る豪傑として描かれている。悪を憎む心が強く、奸臣・張大賓を御苑の金水河に投げ入れ、宮殿では鼎を掲げて宇文化及に投げつけたこともある。また、魚皮国が献上した異獣「一字墨角頼麒麟」を従え、隋の煬帝自ら「護国将軍」に封じて瓦崗征伐を命じられるが、徐茂公の計略により帰順する。[20][21][22]
十八路反王が隋を討つ戦いでは、陣前で「天下無敵」と謳われた宇文成都を一撃で昏倒させ、「十三傑」の第三位に名を連ねた。隋滅亡後、裴親子は李密が美人と引き換えに江山を手放そうとする姿勢に失望し、故郷に隠遁したとされる。[23][24]
伝記資料
脚注
- ↑ 『隋書卷七十』:行儼每有攻戰,所當皆披麾,號為「萬人敵」。
- ↑ 『資治通鑑/卷183』:仁基子行儼,驍勇善戰
- ↑ “第三十一回 邱瑞中计降瓦岗 元庆逞勇取金堤-正文-说唐前传-未删节减足本完整版白话全本全文翻译-国学典籍网”. ab.newdu.com. 2026年1月31日閲覧。
- ↑ “第三十二回 裴元庆怒降瓦岗 程咬金喜纳翠云-正文-说唐前传-未删节减足本完整版白话全本全文翻译-国学典籍网”. ab.newdu.com. 2026年1月31日閲覧。
- ↑ “說唐/第031回 - 维基文库,自由的图书馆” (中国語). zh.wikisource.org. 2026年1月31日閲覧。
- ↑ “說唐/第034回 - 维基文库,自由的图书馆” (中国語). zh.wikisource.org. 2026年1月31日閲覧。
- ↑ “說唐/第035回 - 维基文库,自由的图书馆” (中国語). zh.wikisource.org. 2026年1月31日閲覧。
- ↑ “第三十六回 冰打琼花识天运 剑诛异鬼避凶星-正文-说唐前传-未删节减足本完整版白话全本全文翻译-国学典籍网”. ab.newdu.com. 2026年1月31日閲覧。
- ↑ “說唐/第037回 - 维基文库,自由的图书馆” (中国語). zh.wikisource.org. 2026年1月31日閲覧。
- ↑ “第三十八回 元庆惨陷火雷阵 师徒失机全节义-正文-说唐前传-未删节减足本完整版白话全本全文翻译-国学典籍网”. ab.newdu.com. 2026年1月31日閲覧。
- ↑ “第六十四回 人头计策反昌平王 攻心法招降众隋军-正文-兴唐传-未删节减足本完整版白话全本全文翻译-国学典籍网”. ab.newdu.com. 2026年1月31日閲覧。
- ↑ “第六十五回 酒色徒独掌元帅印 父子将三打瓦岗山-正文-兴唐传-未删节减足本完整版白话全本全文翻译-国学典籍网”. ab.newdu.com. 2026年1月31日閲覧。
- ↑ “第六十五回 酒色徒独掌元帅印 父子将三打瓦岗山-正文-兴唐传-未删节减足本完整版白话全本全文翻译-国学典籍网”. ab.newdu.com. 2026年1月31日閲覧。
- ↑ “第六十八回 秦元帅收服裴元庆 众反王参拜程咬金-正文-兴唐传-未删节减足本完整版白话全本全文翻译-国学典籍网”. ab.newdu.com. 2026年1月31日閲覧。
- ↑ “第七十七回 下扬州汴河泛龙舟 游道观孤峰困御鸳-正文-兴唐传-未删节减足本完整版白话全本全文翻译-国学典籍网”. ab.newdu.com. 2026年1月31日閲覧。
- ↑ “第八十二回 靠山王挥师四平山 大魔国兵困麒麟峪-正文-兴唐传-未删节减足本完整版白话全本全文翻译-国学典籍网”. ab.newdu.com. 2026年1月31日閲覧。
- ↑ “第八十七回 尚师徒复得虎类豹 裴元庆苦练龙头锤-正文-兴唐传-未删节减足本完整版白话全本全文翻译-国学典籍网”. ab.newdu.com. 2026年1月31日閲覧。
- ↑ “第九十五回 裴元庆穷追金刀将 秦叔宝大破泗水关-正文-兴唐传-未删节减足本完整版白话全本全文翻译-国学典籍网”. ab.newdu.com. 2026年1月31日閲覧。
- ↑ “第一百零九回 裴家父子横祸飞身 翟让将军直言犯上-正文-兴唐传-未删节减足本完整版白话全本全文翻译-国学典籍网”. ab.newdu.com. 2026年1月31日閲覧。
- ↑ “第五十二回 杨林兵败金鸡岭 邱瑞荐举裴仁基-正文-瓦岗英雄-未删节减足本完整版白话全本全文翻译-国学典籍网”. ab.newdu.com. 2026年1月31日閲覧。
- ↑ “第五十三回 裴元庆力举千斤鼎 鱼皮国派使送怪兽-正文-瓦岗英雄-未删节减足本完整版白话全本全文翻译-国学典籍网”. ab.newdu.com. 2026年1月31日閲覧。
- ↑ “第五十四回 降异兽小将得宝马 征瓦岗元庆战虎彪-正文-瓦岗英雄-未删节减足本完整版白话全本全文翻译-国学典籍网”. ab.newdu.com. 2026年1月31日閲覧。
- ↑ “第七十四回 裴元庆锤打天宝将 隋炀帝旨调西赵王-正文-瓦岗英雄-未删节减足本完整版白话全本全文翻译-国学典籍网”. ab.newdu.com. 2026年1月31日閲覧。
- ↑ “第九十四回 元霸恃武强索玉玺 李密荒淫众将走离-正文-瓦岗英雄-未删节减足本完整版白话全本全文翻译-国学典籍网”. ab.newdu.com. 2026年1月31日閲覧。
