西山真平
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下都賀郡中泉村(栃木県壬生町中泉)に、瓦井勇蔵の長男として生まれる。のちに西山雄の養子となり、西山姓を称した[1]。
明治維新後に上京し、1878年(明治11年)3月、元老院三等書記生として刑法草案審査局御用掛を命じられ、立法事務に携わった[2]。その後も官界にとどまり、1888年(明治21年)には文官普通試験委員を務めている[2]。1891年(明治24年)頃には貴族院書記官に進んだ。
やがて退官し、日光へ移住。1910年(明治43年)9月30日、旧日光町(現・日光市)の第8代町長に就任した。町長在任中は、日光と細尾を結ぶ交通改善に尽力し、従来の牛車軌道を電車軌道へ転換する構想を推進した。
また、西山の町長時代の最大の業績として、国立公園制度の先駆的運動が挙げられる。1912年(明治45年)、第二十八帝国議会に対し「日光を帝国公園となすの請願」を日光町長として提出し、これが採択された[3]。この請願は、日本における国立公園運動の最初期の公式な動きと位置づけられており、西山の没後も請願は継続され、のちの国立公園制度成立へとつながった。
私生活では、二女を高平小五郎に嫁がせている。高平は日露戦争後の講和会議において全権委員を務めたが、西山は「生きては帰れまい」と深く案じ、無事の帰国を知ると小躍りして喜んだという逸話が伝えられている[1]。晩年には芸者を身請けしたとも伝えられる。