西川明雅
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安永7年(1778年)[4]西川恒山と仁木門右衛門娘の間の子として生まれた[1]。寛政4年(1792年)部屋住みから御役所見習となり、2人扶持を受けた[1]。寛政5年(1793年)書役、寛政9年(1797年)床屋定番役、寛政12年(1800年)目付役助、享和元年(1801年)目付役[1]。
文化2年(1805年)父西川恒山の跡を継ぎ、文化4年(1807年)山方役に転じた[1]。文化5年(1808年)前年分江戸上納金銀宰領、地方・銀山方勘定仕上のため江戸に赴任し、文化6年(1809年)4月29日江戸城植溜で若年寄衆に剣術を披露し、同年帰郷して公事方役となった[1]。
文化13年(1816年)広間役次席、文政3年(1820年)広間役当分助兼公事方役、文政5年(1822年)広間役助、文政9年(1826年)与力格広間役[1]。天保元年(1830年)病気のため退職し、12月28日53歳で病没した[1]。