西川虎之助

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西川 虎之助(にしがわ とらのすけ、1855年3月4日安政2年1月16日[1] - 1929年昭和4年)1月22日)は、日本の実業家[1]、化学技術者、大日本人造肥料取締役[2]、同技術顧問[2]、同技師長[3]。台湾肥料取締役[2][4][5]。猪野鉱業監査役[2][4][5]。工学博士[2][5][6]。族籍は東京府士族[1][2][5][7]。明治期の紙幣の製造に貢献した[8]。大日本製氷社長和合英太郎は甥。

大阪硫曹 1908年頃

広島藩士西川理三郎の長男として安芸国(現・広島県)に生まれ、1871年(明治4年)に広島県の留学生としてイギリスに渡り、応用化学を学ぶ[8]1874年(明治7年)、滞在先の下宿屋の娘で4歳年上のKatie Henrietta Winterとロンドン近郊で結婚し、その翌月に長女・お清、翌年に次女・朝子をもうけ、妻子を連れ1879年(明治12年)に帰国[9]

大蔵省印刷局舎密課の技師となり、さまざまな製造法を開発し、印刷局に大いに貢献した[8]。明治政府による殖産事業の民間移譲の方針に基づいて印刷局を去り、1889年(明治22年)に、渋沢栄一大倉喜八郎浅野総一郎ら時の財界人を株主として東京青山で青山製氷所を創設して日本初の製氷事業を立ち上げた。のちの“製氷王”こと和合英太郎も入社した。しかし経営は芳しくなく1892年(明治25年)に廃業した[10]

同1892年には大阪府西成郡川北村の大阪硫曹株式会社の技師長兼工務支配人となる[8]1901年(明治34年)には工学博士の学位を授けられる[6]。その後大阪アルカリや大日本人造肥料などに勤務し、技師長・重役を歴任した[3]

人物

虎之助は、イギリス人妻との間に1男4女をもうけ、長女のキヨ(清子)は、慶應義塾大学部理財科主任教師のアメリカ人ヴィッカース(Enoch Howard Vickers)と1899年に結婚し[11]、長男の正心は少年時に渡英してイギリスに帰化、三女の愛喜代(アキヨ)はドイツ人ベール(Ernst Behr)と結婚し、その孫娘であるラビツケ(Karin Labitzke)はベルリン自由大学教授となった[8]

肥料に関する造詣が深い[2][5]

栄典

家族・親族

脚注

参考文献

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