西幕府

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西幕府(にしばくふ)は、室町時代中期の応仁の乱において、西軍が足利義視足利義政の弟)を事実上の将軍として樹立した政権[1][2]。東幕府(室町幕府)に対する呼称である[3]

応仁2年(1468年)11月13日、足利義視は東軍の内部対立における孤立により、東軍陣営を離れ、京都から比叡山延暦寺へ逃れた[4][5][6]

義視が比叡山に出奔すると、山名宗全から使者を送られ、西軍への与同を求められた[7]。西軍はこれまで将軍である義政を擁する東軍に対し、その正当性を主張できずにいたため、義視を西軍の盟主とすることを望んだ[7][8]。義視は孤立無援の状況から脱出するため、宗全の誘いに応じた[7]

11月23日、義視は比叡山から帰京し、斯波義廉の邸宅(陣)に入った[7][4][1]。そして、24日に大内政弘ら西軍諸将が馳せ参じると、義視の与同を喜び、義視のことを「今出川殿」ではなく「相公(将軍)」と仰いだ[9][8]。かくして、事実上、義政と義視という二人の将軍が併存する事態となった[1]

ここに、西軍は将軍(義視)・管領(義廉)を有し、幕府を模倣した政治機構の体裁となった[1][8]。これは「西幕府」と呼称される[1][2][8]。これに対し、義視の兄で将軍の足利義政や、細川勝元ら東軍による幕府(室町幕府)は「東幕府」と呼称される[10][11]

だが、義政は義視が西軍に与したことを激怒し、12月5日に朝廷に義視から正二位・権大納言の官位を剥奪させた[5][12]。また、後花園法皇には凶徒(西軍)と同意したことを理由に追討を命じる治罰の院宣を出させ[13]、義視を朝敵とした[5][9][14]

応仁3年(文明元年、1469年)正月、義視は山名宗全の邸に御成し、西軍の諸将から馬や太刀を献上された[15]。また、3月14日にも義視は宗全邸に御成した[15]

4月、義視は大内政弘の要請を受け、四国や九州の大名らに軍勢を率いて上洛することを命ずる御内書を16通発給している[15]

7月9日、義視は大内政弘を左京大夫に推挙し、そのほかの大名も推挙した[2]。義視はまた、西室僧正の公恵を東大寺別当に還補しているほか、越智家栄を和泉守護に任じている[2]

文明2年(1470年)正月22日、義視は将軍としての役割を果たすべく、石見益田貞兼に対し、同国の三隅豊信跡の所々地を与えている[2]

文明3年(1471年)8月26日、義視や西軍諸将の要請をうけた南朝皇胤が入洛し、北野松梅院に入った[16][17]。この南朝後胤は「新主」として扱われ、「西陣南帝」と呼称された[16][17]。この擁立は、西軍が天皇と将軍を擁する東軍に対し、大義名分の面で依然劣っており、その権威に対抗するという発想に基づくものであった[18]

文明5年(1473年)3月18日、山名宗全が死去し、5月11日に細川勝元も死去すると、東西両軍は和睦に大きく傾いた[19]。また、宗全の死後、西軍に擁立されていた西陣南帝は放擲されているが、それは義視が南帝の擁立を快く思っておらず、非協力的であったことも理由と考えられる[20]

4月3日、山名政豊(宗全の孫)と細川政元(勝元の息子)との間で和睦が成立した[21]。そして、山名氏は義政に赦免されたのち、政弘ら西軍諸将に和睦を通達した[22]。ところが、政弘ら西軍諸将は義尚が将軍であるにもかかわらず、義視が義政と和与しなければ和睦には応じないとし、和睦を事実上拒否したため、山名氏のみが和睦するに留まった[22]

文明8年(1476年)6月、義視と対立していた日野勝光が死去すると、9月に義政が政弘に対して、「世上無為(大乱の終結)」に尽力するよう御内書を出し、和平を提案した[23][24]。義政の終戦提案に対し、政弘が応じる姿勢を見せ、義視や西軍諸将は談合した[23]。これに対し、義視も義政に「別心」はないと伝えた[23]

12月、義視は義政より、「これまでの行為を不問とし、諸事についても今後は義視のいうことを承知したうえで成敗する」との御内書を受けた[25]。西軍諸将が要求する義政と義視の和解は、東西両軍の和睦、大乱終結に大きく近付いたことを意味した[26]。また、義視と義政の関係も修復へと向かった[27]

文明9年(1477年)11月3日、大内政弘が東幕府に降参し、政弘は周防長門豊前筑前の四ヶ国の守護職を認められ、所々の知行を安堵された[28]。このとき、政弘は義政と対面せず、伊勢貞宗を通じて御礼を申し上げている[28]

11月11日、大内政弘が京都から本国の周防に向けて帰還し[28]土岐成頼畠山義統ら西軍の大名らも同日、自陣を焼き払って、本国への帰途に就いた[29][28]。同日、義視は嫡子の義材(義稙)をはじめ、正親町三条公治ら近臣、成頼や斎藤妙椿らを伴って京都を離れ、土岐氏の領国である美濃に下向した[29][30][28]

義視や西軍の大名らが京都を離れ、地方に下向したことにより、10年におよぶ大乱は終結した[29]。そして、西幕府は解体されることとなった[31]

考察

  • 西幕府と東幕府(室町幕府)という「二つの幕府」の存在を提唱したのは、百瀬今朝雄である[注釈 1]。その後、百瀬の東西幕府論をより深めたのが、家永遵嗣である[注釈 2]
  • 西幕府は、足利義視を将軍、斯波義廉を管領としたほか[1][8]伊勢貞藤伊勢氏の当主として扱い、政所執事とした[33]。また、義視は大内政弘の配下である麻生弘家を西幕府の在京奉公衆としたほか、飯尾為脩を奉行人とするなど、幕府の体裁を整えていた[33]
  • 西軍の諸将は大乱中、将軍に任官していない義視を将軍として扱い、また将軍家の当主として扱った[34]。義政は大内政弘や畠山義就ら西軍諸将に和平交渉を行ったが、諸将は義視を盟主として擁立した手前、その処遇が決まらないうちは東軍に降ることはなかった[24]。また、義視と西軍諸将との関係は、息子の足利義稙の代になっても維持されたようである[35][注釈 3]
  • 義視は大乱中に西軍の盟主として、古河公方足利成氏(兄の足利政知が関東で対峙していた)とも和睦交渉するなど、独自の外交を展開した[37]。すでに、西軍側は義視が与同する前の応仁2年4月の時点で、成氏との和睦交渉を開始しており[38]、その交渉は和睦ではなく、軍事同盟であったとする見方もある[39]
  • 西軍は自らの働きかけによって、応仁2年9月の時点で義視が西軍に参加することが確実と判断しており、義視と成氏が和睦することで関東の和平を実現して、その勢いで義視の将軍就任を現実のものとし、その構想が西幕府として現れたのではないかとする見方がある[2]。義視としても、日野勝光伊勢貞親を排除したうえで、将軍権力を継承することを考えていたとみられる[2]
  • だが、成氏が義政ではなく義視と和睦交渉していたとする見方に関しては、容易に判断できないとする指摘もある[40]。仮に義視との和睦が成立したとしても、義政との和睦が成立したわけではないため、成氏と義政及び上杉氏との対立が解消されるわけではなかった[40]
  • 義視は大乱中、西軍における事実上の将軍として、将軍である義政と同様に様々な命令を下した[41]。その中には、臨済宗五山派に属する禅寺の住持任命状も多くあり、大乱後にそれらの扱いが問題となっている[41]

脚注

参考文献

関連項目

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