西村事件

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西村事件(にしむらじけん)とは1949年1月25日から1950年10月13日かけて発生した4件の殺人事件、主に1950年10月13日に発生した社宅爆破事件で知られている。逮捕後犯人が脱獄に成功するなどして当時の社宅街は震撼し、関係者らは報復を恐れた。

爆破事件

1950年10月13日午前1時50分頃、別子鉱業社宅・F・K宅付近にて突然爆発が発生し、F宅が破壊され、就寝中のS・A(13歳)が即死し、S・H(19歳)が重症を負った。妻・M、次女・F、長女・Nの3人は無事で、Fは入院中であった[1]。東新警察署は何者かが爆薬を仕掛けて意図的に爆破したものと判断し直ちに捜査を開始した[1]。爆破現場は屋根瓦や戸、障子が吹き飛ばされ、被害者の血や肉片が飛散するという凄惨な状態となっていた[1]。事件はダイナマイト7本から10本を使用した怨恨または痴情を同期とした計画的犯行と推定された[1]。捜査の結果、鉱夫・西村楠義(41歳)がFの妻に数千円を貸しており、返済を要求し、もし返済できなければ女房になれと脅迫してたことが判明し楠義が容疑者として浮上した[1]。楠義は妻・K(36歳)と離縁し、二男・H(6歳)と長女・F(1歳4ヶ月)の子供二人とともに実家へ帰り、現在長男(12歳)との二人暮しで、未亡人・Aと交際しており、Kは継母であり、Kは実家に帰る際に近所の人に一言も挨拶していないことなどが判明[1]。捜査の結果西村を爆破事件の容疑者として直接捜査することとなった[1]

逮捕・自殺未遂

11月8日、楠義は別件の婦女暴行容疑で逮捕された[1]。楠義は「自分もよく考えてみたが、思うところがあるので、今までの事は全部白状するから、Aと長男に会わせてくれ」と懇願した[1]。東新署は署員数人を付けてA宅へ連行し、楠義を2人に面会させた[1]。この時楠義は自らが犯した犯罪を恥じて、死を覚悟したかのような言動をしていたという[1]。同日20時30分頃に楠義は自宅から忍ばせた日本剃刀で喉を切りつけて自殺を図ったが僅かに頸動脈を外れていたため未遂に終わった[1]

余罪発覚

楠義は妻子を連れて和歌山県台湾広島県等を転々としており、また長女・Mは1940年1月2日に台湾台北で死亡しており、東新署はこれにも疑いを持って捜査したが西村は8歳の時に台湾で病気になり急死し、医師は消化不良による栄養失調と診断したと述べるだけであった[1]。また妻のKもすでに死亡していた[1]。1950年11月11日、東新署は楠義の取り調べを中止し、爆破事件の犯人は楠義に違いないと確信し、証拠収集と余罪の捜査に移って家宅捜査を行い、家宅捜査の結果妻・Kと長女・Fのミイラ化した遺体と朽ちた着物と古新聞を発見、Kは頭蓋骨を骨折しており首を細紐で絞められた痕跡があり、Fにも頭蓋骨に骨折の後が見つかった、2人の死体解剖後、妻子殺害の確証を得た後、本格的捜査を行うことにし二男・Hの所在捜査を開始し、同月13日に新居郡に出稼ぎに来ていた高知県出身の老婆から昨年2月頃に佐川町大中山の谷間で男児の絞殺体が発見されたことがあったとの証言があり、捜査陣はこの情報を重視して国家地方警察高知県本部と佐川町警察署に証言の事実の有無を照会したところ以下の回答があった[1]

昭和二四年三月一一日午前十時ごろ、高知県高岡郡佐川町大中山かや同郡越知町に通じる国道の谷間で、年齢九歳位の男子の絞殺死体を発見し、当時所轄佐川町警察署において殺人事件として捜査したが、身元不明のため未検証事件となっている。被害者の人相・年齢・着衣等の状況からして、西村楠義の二男Hではないかと思われる[1]
国家地方警察高知県本部捜査課

15日朝、佐川町署から操作記録と証拠品の送付を受けた捜査陣は、衣類などその他の証拠品を関係者に示したところHのものと判明し、楠義がこれまでに妻子ら4人を殺害した事実が発覚した[1]。11月23日楠義は爆破事件について自白したが動機などは自白せずにいた[1]。翌日に捜査陣は妻子の遺体の状態などを告げてその事実を追求すると、楠義は突然顔面蒼白となり、一連の連続殺人を自白したがこの自白は未亡人・Aを共犯者に仕立てあげるための虚偽の自白であった。また楠義は後に爆破事件について否認し始め、妻子殺害についても真実を語ろうとせずにおり、以下の言葉を語った[1]

自分が一番よく知っておるのだ。ほかにおれほど知っておる者はいないではないか。つじつまが会わなくても仕方がない[1]
西村楠義

脱獄

楠義は殺人・死体遺棄の容疑で起訴され、同月20日、殺人・死体遺棄・爆発物取締罰則の容疑で追起訴された[1]。1951年1月10日、松山地方裁判所西条支部にて西村の第一回公判が開かれ、その後公判は3回開かれたが、楠義が首を吊っていたKを斧で殴ったと殺人を否認する自白をしたため、地裁は大阪大学医学部に死因鑑定を依頼し、鑑定書の到着を待つため公判は遅延した。楠義は1年8ヶ月にわたる、刑務所生活に耐えかね、翌年7月に所長を通じて地裁西条支部に公判続行方を請求したが所長から遅延理由を告げられたことで失望した[1]。やがて楠義は脱獄を決意し木片や瓦の破片で穴を掘り始め、ちり紙に書き残し、同年10月23日に脱獄に成功した[1][2]。脱獄後の調査によれば西村は長期間病人を装って看守に安心感を抱かせ、床下の木材や獄窓のレール、羽毛などを使って手鉤、木製スコップ、網を作成し、脱獄の時期として野山にカキクリミカンイモ等が実り、稲田に隠れやすい10月下旬を選び、脱獄四日前に散髪し支度をし、長期にわたって脱獄後のコースを検討し計画を練っていたものと思われた[1]。西条警察署は全署員を非常召集し、国家地方警察愛媛県本部捜査課と西条刑務支所との合同捜査を開始した[1]。楠義は直ちに手配された[1]。所轄新居地区警察署は青年団消防隊らの応援を得て、未亡人・Aや証人などの関係者らの安全のため警戒に努め、特別機動隊員16人は別子山一帯を捜査し、その後雑貨商(59歳)から田んぼの中から手鉤が発見される、楠義らしい人物が店に現れ米と麦を買って立ち去る、西村らしき人物が焚き火をして野宿をしているところを目撃したとの証言が手に入り。その後米と麦が散乱した現場が見つかり、畑からさつまいも里芋が盗まれるといった事件も起き、雑貨商に西村の特徴である目のくぼみや上目遣い、ヒヒンという笑い方などを指摘し手配写真を見せたところ西村に違いないと思われた[1]。11月1日には郵便集配人、行商人、狩猟者らに手配写真90枚を配布し、協力を求め、地元警察や民間人らの協力も得て捜査したが虚しく徒労に終わった[1]。12月11日には楠義を加重逃走罪により全国指名手配し、12月17日には「徳島県三好郡に楠義潜入」との情報が入り、捜査をしたが不審者は既に去っており、楠義発見の手がかりは得ることができずにいた。脱獄から5年後の1957年10月22日に加重逃走罪の事項が成立し、同年12月20日に殺人および死体遺棄の罪で拘留状の執行指揮書を発布した[1]。翌月23日には加重逃走罪による指名手配を解除し、拘留状の執行指揮書による所在捜査を全国都道府県警察に手配した[1]

逮捕

1959年6月19日、楠義は警察庁の第二次重要被疑者総合手配により全国へ手配された[1]。総合手配後、宮城県岐阜県大阪府京都府兵庫県島根県香川県高知県大分県などの各都道府県の警察から次々と情報が寄せられ、裏付け捜査が行われ、翌年9月18日に宮城県警からの通報で楠義と容姿が酷似している河合新四郎という男がいるとの情報が寄せられた、翌日新四郎は職務質問され、連行され、指紋を照合したところ楠義との指紋と一致した[1]。その後楠義は西条刑務支所に引き渡された[1][3]

動機・内容

  • 未亡人・Aとの関係に嫉妬したKとの争いが耐えなくなり、1949年1月25日に夫婦喧嘩をしたことでKは離縁して実家に帰るからラジオを売って切手金にくれと要求したが楠義は拒否したため、Kは斧を持ち出してラジオを壊そうとした[1]。このことに激怒した西村は斧を奪い取って数回殴打し、細紐で首を絞め絞殺した[1]。その後長女・Fも殴打し脳震盪により殺害[1]
  • 妻殺害後、楠義は長男と二男・Hの養育に困惑していた。同年2月上旬、実兄から「父危篤」の知らせを受け、帰郷の際に博を連れて行き、途中の山中で殺害することを決意した[1]。 2月12日に母の元に連れて行くと言って博を連れ出し、翌日、高知県高岡郡国鉄西佐川駅から徒歩で同郡越知町に行く途中、同郡佐川町中山大中山の国道上方20mの谷間で、Hの首を手ぬぐいで絞めて窒息死させ、死体を同所に放置して立ち去った[1]
  • 妻子殺害後、楠義は未亡人・A以外の別の女とも交際していたが、その女の弟から交際をやめてくれと言われた事で憤懣し、坑内から鉱石発破用のダイナマイト、雷管、導火線を持ち去り、ダイナマイトを爆破し、S・Aを死亡させた[1]

裁判

一審で爆破事件では証拠不十分により無罪とされたが控訴され、1962年1月31日、無期懲役の判決が言い渡された。妻子殺害の件では懲役15年の判決が言い渡された[1]。同年10月26日、最高裁判所は楠義の上告を棄却した[1]

大衆文化にて

脚注

外部リンク

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