西谷能雄
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旧制佐渡中学卒業後、ストライキで東京外国語学校ロシヤ語科を退学になり、1937年明治大学文藝科卒業。京都大学で哲学を教えていた従兄西谷啓治の世話により京都の弘文堂に勤務する。当時、弘文堂は学術出版社として名高く、「東の岩波、西の弘文堂」と言われたほどで、ほぼ官立大学・国立大学の教授の著書しか出版せず、権威主義の傾向が強かった。しかし西谷は当時まだ無名だった木下順二の『夕鶴』を弘文堂の啓蒙的叢書「アテネ文庫」に入れることを企画会議で頑強に提案した。この企画が当たって『夕鶴』が版を重ねたことから、無名の著者の原稿でも優れていれば刊行すべきであるとの信念を持つに至る。
同社取締役編集部長ののち、1951年10月31日に退社、1951年11月11日に未來社を創設する。退職金代わりに弘文堂から譲り受けた「アテネ文庫」の紙型を利用して、木下順二『夕鶴』と山本安英『歩いてきた道』を同社の最初の書目として刊行した。1968年に注文制(買い切り)を実施する。ワーズワースの「思いは高く、暮らしは低く」を仕事上の信条とし、主として左翼系の出版物を刊行した。