許和平
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日本統治時代の慶尚北道浦項府に生まれ、浦項市北区杞渓面出身[5]。浦項高等学校、陸軍士官学校卒業[1]。陸軍少尉に任官された後、歩兵第9師団大隊長・作戦参謀、国軍保安司令官秘書室長を歴任し、ハナフェにも加入した。粛軍クーデター当時は保安司令官秘書室長であり、クーデターの画策に参加した[3]。
陸軍准将として予備役に編入した後[1]、全斗煥政権初期の大統領秘書室補佐官、次いで大統領政務第1首席秘書官に任命された。特に大統領秘書室補佐官時代は別館で勤務する室長以下の大統領秘書室の面々と異なり、全斗煥と同じ建物に執務室が与えられており、秘書室長を遥かに超える権勢を振るい、実質的な全斗煥政権のナンバー2と見做されていた(ただし、余りに絶大な権力を与えられたことから批判も受けており、これが首席秘書官へ転出される要因ともなった)[6]。しかし、1982年の「張玲子・李哲熙金融詐欺事件[7]」で原則的処理である全斗煥の親姻戚の公職辞退を提案したため、全と遠ざかり、同年末に大統領府を去った[3][4]。その後は米国に渡り、ヘリテージ財団傘下のヘリテージ研究所で上級研究員を務めた[1]。
盧泰愚政権が発足した後に帰国し、1992年の第14代総選挙で無所属候補として浦項市選挙区から当選した。その後は金泳三への支持を宣言し民主自由党に入党したが、大統領在任中の金が粛軍クーデター関連者に対する司法処理を推進したため拘束された。1996年の第15代総選挙で獄中から無所属で浦項市北区選挙区から出馬し再選されたが、粛軍クーデターと光州事件当時の反乱重要任務に従事した容疑で懲役8年の有罪判決を受けたため議員職を喪失した。1997年12月に刑の執行が免除されたが、その後の第16代、17代総選挙で相次いで落選した後は政界を引退した[3][4]。2000年以降は現代社会研究所所長、未来韓国財団所長を歴任した[1]。2021年に全斗煥が死去した後は遺体安置所に行き弔問を行った[8]。