訳詞
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訳詞(やくし、英: song translation, lyric translation)とは、ある言語で書かれた歌詞を別の言語へ翻訳または翻案すること、およびその結果として作られた歌詞をいう[1][2]。特に日本語では、原曲の旋律へ合わせて実際に歌唱できるように作られた翻訳歌詞を指す場合が多く、その作業を行う者は訳詞家と呼ばれる[1][3]。
訳詞では、原詞の意味を別の言語で伝えるだけでなく、音節数またはモーラ数、言葉のアクセント、旋律のリズム、押韻、語句の反復、発音のしやすさなどを調整する必要がある[4][5]。このため、歌唱を目的とする訳詞では、語句を逐語的に置き換えるのではなく、省略、追加、言換え、語順変更などを行い、意味と音楽的な制約の均衡を図ることがある[4][2]。
概要
歌詞は、言語だけで成立する文章とは異なり、旋律、和声、リズム、歌唱および上演と結び付いて提示される[2]。このため、歌詞の翻訳方法は、その翻訳を何のために用いるかによって異なる[1]。
藤濤文子は、歌詞翻訳の用途として、原曲の旋律で歌うための歌唱可能な訳詞、録音物へ添付する対訳、演奏会のプログラムに掲載する翻訳、映画や舞台などの字幕を挙げている[1]。歌唱を目的としない対訳や字幕では、原詞の意味や内容を詳しく伝えることを優先できる一方、歌唱用の訳詞では、原曲の音符、フレーズ、テンポおよび呼吸位置に言葉を適合させる必要がある[1][2]。
ヨハン・フランゾンは、歌詞を別の言語へ移す際の理論上の選択肢として、次の5種類を示している[2]。
歌詞を翻訳しない。
音楽との適合を考慮せず、歌詞だけを翻訳する。
原詞とは異なる新しい歌詞を書く。
翻訳した歌詞に合わせて音楽を変更する。
原曲の音楽に合わせて翻訳歌詞を変更する。
実際の訳詞では、これらの方法が組み合わされることがある[2]。原詞の意味を比較的忠実に伝える版、原曲の旋律への適合を優先する版、対象言語の文化や上演目的に合わせて大幅に翻案した版など、同じ楽曲について複数の訳詞が作られる場合もある[1][2]。
歌唱可能性
歌唱可能性または歌唱適合性(英: singability)とは、訳された歌詞が、対象となる旋律と音楽的・言語的に適合し、実際に歌唱できる性質をいう[2]。フランゾンは、歌唱可能性を、歌詞と音楽との適合関係として捉え、その要素を韻律的、詩的および意味的・表現的な層に分けている[2]。
ピーター・ロウは、歌唱可能な訳詞を評価・制作するためのペンタスロン原則(英: Pentathlon Principle)を提示し、次の5要素を総合的に調整する必要があるとした[4][1]。
- 歌唱可能性
- 歌手が原曲の旋律、テンポおよび音域に合わせ、無理なく発音・呼吸できること[4]。
- 意味
- 原詞の主題、情報、感情および語り手の意図を、必要な範囲で保持すること[4]。
- 自然さ
- 対象言語として不自然な語順や表現を避け、聴き手が理解できる言葉にすること[4]。
- リズム
- 原曲の音符数、音価、強拍・弱拍、フレーズの区切りなどへ言葉を適合させること[4]。
- 韻
- 原詞の押韻や反復が持つ詩的・音楽的効果を、必要に応じて対象言語でも再現すること[4][5]。
これらの要素は常に同時に完全な形で保存できるとは限らない[4]。意味を逐語的に維持するとリズムや自然さが失われる場合があり、反対に、歌いやすさや韻を優先すると原詞の情報が省略・変更される場合がある[4][5]。ロウは、原詞と同じ数・質の韻を機械的に再現する必要はなく、完全韻だけでなく近似的な韻も利用しながら、他の要素との均衡を図るべきだと論じた[5]。
制作上の調整
音節・モーラと音符
歌唱用の訳詞では、原曲の各音符または音符群へ、対象言語の音節やモーラを割り当てる必要がある[1][2]。原語と対象言語で同じ内容を表現するために必要な音節数が異なる場合、情報を省略したり、複数の語を短い表現へまとめたりすることがある[4]。
一つの音節を複数の音符へ伸ばすメリスマ、一つの音符へ複数の音を詰め込む処理、休符の位置なども、訳詞の語句選択へ影響する[2]。長く伸ばされる音には歌唱しやすい母音を配置し、速い箇所では発音しにくい子音の連続を避けるなど、発声上の調整が行われることもある[4]。
アクセントとフレージング
言葉本来のアクセントと、旋律上の強拍または高音の位置が大きく異なると、語の意味が聞き取りにくくなったり、不自然な発音に聞こえたりする[4][2]。訳詞家は、語順、助詞、語尾などを変更し、重要な語を音楽上の目立つ位置へ置く[4]。
原詞の一文と音楽上のフレーズが一致している場合でも、対象言語の文法構造によっては同じ位置で文を区切れないことがある。そのため、複数の行へ意味を分散させたり、前後のフレーズを一体として訳したりする場合がある[1]。
意味と自然さ
歌唱用の訳詞では、原詞の単語を一語ずつ対応させることよりも、楽曲全体の主題、感情、物語上の機能などを対象言語で再現することが優先される場合がある[4][2]。
文化固有の比喩、地名、言葉遊びなどを直訳しても対象言語の聴き手に伝わらない場合には、同様の機能を持つ別の表現へ置き換えることがある[2]。一方で、変更の程度が大きくなり、原詞との意味上の対応が弱くなると、訳詞よりも新たな作詞または翻案に近いものとなる[2]。
韻と反復
原詞で韻、頭韻、反復などが音楽構造と結び付いている場合、訳詞でも同様の位置へ音響的な対応を設けることがある[5]。ただし、対象言語の語彙や音韻構造によっては、原詞と同じ位置で同じ形式の韻を再現することが困難である[5]。
ロウは、意味や自然さを犠牲にして完全韻を強制することを避け、韻の頻度を減らすことや、母音・子音の一部だけが対応する近似韻を用いることを認めている[5]。
用途
ポピュラー音楽
海外のポピュラー音楽を対象言語の歌手が歌う場合、原曲の旋律を維持したまま、対象言語による訳詞が作られることがある[2]。この場合、原詞の意味に比較的忠実な版から、対象となる歌手、聴衆、時代または市場に合わせて大幅に翻案した版まで、訳詞の方法は一定ではない[2]。
録音物に添付される歌詞対訳は、必ずしも原曲の旋律で歌えるようには作られておらず、原詞の意味を読者へ伝えることを主な目的とする[1]。したがって、同じ楽曲について、歌唱用の訳詞と、冊子などに掲載する対訳が別々に作られることがある[1]。
オペラ・ミュージカル
オペラやミュージカルでは、楽曲が物語、人物、台詞および舞台上の動作と結び付いているため、訳詞には歌唱可能性だけでなく、劇中での意味や人物表現を維持することが求められる[1][2]。
原語上演に字幕または字幕表示を付ける場合には、歌唱用の訳詞ではなく、観客が短時間で読める翻訳が用いられる[1]。一方、対象言語で上演する場合には、音符、歌手の発声、舞台上の動作および台詞との連続性に合わせた歌唱可能な訳詞が必要となる[1]。
映画・アニメーション
映画やアニメーションの吹替版では、歌詞を原曲の旋律へ合わせることに加え、画面上の人物の動作、場面の長さ、台詞とのつながりなどを考慮した訳詞が行われる[2]。字幕版では、歌を対象言語で歌唱せず、原詞の内容を字幕として示す方法も採られる[1][2]。
聖歌・童謡・合唱曲
聖歌、童謡、合唱曲などでも、外国語の歌詞を対象言語で歌えるようにするための訳詞が用いられる[2]。共同体で反復して歌われる作品では、意味の正確さに加えて、覚えやすさ、発音のしやすさ、反復部分の統一などが重視される場合がある[2]。
類似する概念
歌詞対訳
歌詞対訳は、原詞と並べて掲載し、その意味を読者へ伝えるための翻訳である[1]。原曲の旋律で歌うことを目的としないため、音節数、音符、韻などへ厳密に合わせる必要はない[1]。
これに対し、歌唱用の訳詞では、意味の一部を省略・変更してでも、音楽との適合を確保する場合がある[4]。
替え歌
替え歌は、既存の旋律へ原詞とは異なる新しい歌詞を付けるものである。原詞の意味や内容を別の言語で再現することを主な目的とする訳詞とは異なるが、原詞から大幅に離れた自由な訳詞との境界は明確でない場合がある[2]。
フランゾンは、歌詞翻訳の選択肢の一つとして「新しい歌詞を書く」方法を挙げており、実際の翻訳・翻案では訳詞と新規作詞が連続的な関係にあるとした[2]。
作詞
作詞は、原則として翻訳元となる歌詞を前提とせず、新たな歌詞を創作する行為である。訳詞では、変更の程度に差があっても、原詞との意味的、機能的または作品上の関係が存在する[2]。
翻訳と翻案
原詞の意味を比較的忠実に別言語へ移す行為は翻訳と呼ばれる一方、対象言語の文化、歌手、上演条件などに合わせて内容を大きく変更する行為は翻案と呼ばれることがある[1][2]。歌唱可能な訳詞では、翻訳と翻案の双方の性質が含まれる場合がある[4]。
著作権法上の扱い
翻訳権・翻案権
日本の著作権法第27条は、著作者が著作物を翻訳、編曲、変形、脚色、映画化その他の方法で翻案する権利を専有すると定めている[6]。著作権が存続している歌詞を訳詞する場合には、著作権法上の権利制限規定が適用される場合を除き、原詞の権利者から許諾を受ける必要がある[6][7]。
JASRACは、訳詞、替え歌および編曲による改変について、同協会が翻案権の譲渡を受けていないため、訳詞そのものを許諾できないとしている[8]。訳詞を公表・利用する場合には、原詞の著作者または関係する音楽出版社へ事前に確認する必要がある[7][8]。
同一性保持権
著作権法第20条は、著作者が、自らの著作物および題号について、その意に反する改変を受けない同一性保持権を有すると定めている[6]。訳詞による語句、意味、人物像などの変更は、翻訳権・翻案権だけでなく、原詞の著作者人格権との関係も問題となり得る[8]。
著作者人格権は譲渡できず、著作権の財産的な権利を音楽出版社などが保有している場合でも、原著作者の意向を別に確認する必要が生じることがある[8]。
二次的著作物
創作性のある訳詞は、原詞を翻訳・翻案して作られた二次的著作物となり得る[6]。訳詞家の権利は、訳詞によって新たに加えられた創作的な表現に生じるが、原詞の著作権を消滅させるものではない[6]。
著作権法第28条により、原詞の著作者は、その訳詞を利用することについて、訳詞の著作者が有するものと同じ種類の権利を有する[6]。したがって、訳詞を録音、出版、演奏、公衆送信などに利用する際には、原詞と訳詞の双方に関係する権利を確認する必要がある[6]。
JASRACは、使用料の分配対象となる作品の関係権利者に、作詞者、作曲者、訳詞者、編曲者および音楽出版社を含めており、作品届とは別に訳詞届を設けている[3]。