認識的民主主義をめぐる議論として、少なくとも2つの論点がある。
認識的民主主義は、民主的な手続きに「真理に近づく傾向性」があると提唱するため、この主張の妥当性が問題となる。言い換えれば、民主主義は政治における意思決定の認識論的な質を強化するのに役立つのか、という問いが投げかけられる[11]。
実際、民主主義が正しい結論を生み出すという認識論的理想は、プラトン、アリストテレス、リップマン、シュンペーター、アローなど、様々な人物により、また様々な論拠によって、否定されてきた歴史をもつ[11]。
こうした批判に加え、その内面自身が抱える問題点などを踏まえた上で、「陪審定理」「多様性が能力に勝る定理」「パース流の認識的民主主義(Peircean Epistemic Democracy)」「デューイ流の認識的民主主義(Deweyan Epistemic Democracy)」など、それぞれの民主的意思決定プロセスが、本当に正しい結論を導けるかどうかが争点となる。
民主主義を擁護または正当化する時、大きく2つの派閥がある。
ひとつは、手続き主義者(英語版)であり、民主的意思決定プロセスが手続き的に公平であることが、民主主義を正当化すると主張する[7]。例えば、熟議民主主義においては、民主的な議論に真理の概念を適用するのを控えるロールズの認識論的禁欲(Epistemic Abstinence)を基礎に、議論それ自体に内在的価値(英語版)をおいている[3]。よって、たとえ民主的な意思決定の結果が間違っていたとしても、人々が結論を受け容れることができるということになる。
いまひとつは、道具主義者であり、民主的意思決定プロセスとは別に、その結果が成功であることに価値を見出し、これが民主主義を正当化すると主張する[7]。認識的民主主義者は、人々の民主的プロセスの結果生じる正しい意思決定という価値を評価する点で、こちらに分類される。ある哲学者は、大気汚染問題の例を挙げ、こうした人々の利益がかかっている社会問題に対して民主主義の取り組みを擁護するとき、公平な手続きだけに注目するならばコインを投げることと変わらないとし、民主的に意思決定された具体的な政策の成功という民主主義の道具的機能も、民主主義の正当化に重要な役割を果たすと説明する[7]。