谷文一は宮津藩に仕え、宮津藩主本荘宗秀に招かれた絵師であり、は宮津京街道に住んだ。谷文晁の孫にあたるとされる。
万延元年遣米使節では村垣範正に随行した画家として名を残す。渡米中、脚絆がほどけ不細工な姿を写真に撮られ、そのまま新聞に掲載されたと伝えられる。
万延元年三月七日、パナマ海峡付近で奇亀を発見し、亀は軍艦ロアノーク戦中で死んだものの、村垣範正の命により文一がその姿をスケッチした。
また航海中には尾の器用な珍猿を含む三十一種の猿を観察し、文一が写生したという。新見正興が一匹を日本へ持ち帰ったが、帰国後に飽きて人に渡し、浅草奥山で見世物となった。
渡米の折に『掌中画帳』を著し、随行中の事物の実写や臨写を残した。『掌中画帳』には色名の英訳とわずかな彩色、使節一行の人名一覧などが含まれ、文一の外孫・内山広三が所蔵していた。
さらに、村垣範正自筆とされてきた『伝村垣範正筆亜行画帳』は、筆致の一致から従者である文一のスケッチ帖であり、主命により文一が執筆したものとされる。
昭和35年(1960年)には、文一の妻の妹の子である内山広三が「日米修好百年祭に際し谷文一を憶う」を著し、文一が明治10年10月30日に没したこと、昭和のころには家が絶えていたことを記している。
宮津で没した二代目文一の墓は宮津市金屋谷の大頂寺にあり、過去帳には「道知院立方文一居士 十月三十日 谷文一郎コト六十四年一ヶ月」とある。文一の妻は明治29年に死去した。